宋史卷四百七十 列傳第二百二十九 趙賛

険詖な人格と厳しい取り締まり

  • 趙賛は幷州の人。性格は険詖辯給で利害を語ることを好んだ。初め軍の小吏であったが、都校と不和になり営中の謀叛を誣告し、劉継元がこれを一人残らず処刑した。賛は右職に署せられた。太原平定後、三司に隷して走吏となり、また本司から殿直に補せられることを許された。太宗は頗るこれを任用し、供奉官・閤門祗候に遷り、京西・陝西数州の銭帛を提挙し発摘(摘発)することが多かった。
  • また自ら捕盗を求め永興に至り、兵士が銭二百を盗んだのを得て市で磔にしようとしたが、知府の張斉賢がこれを奪い釈放した。太宗は御史台に按問させ、賛の官を数ヶ月停め、その後再び三司の簿を専ら鈎校させ、賛に自ら吏十数人を耳目として選ばせ専ら中書・枢密・三司の事を伺わせ、隙に乗じてこれを告げさせた。太宗はこれを忠でほかに邪心はないと考え、中外はますますその口を畏れた。三司の官属を改めるにあたり、賛は西京作坊副使・度支都監とされた。
  • 当時また鄭昌嗣という宣州の人があり、同じく三司の役吏から起こり、やや遷って侍禁となり、西川への使いから戻ると官にありながら治めない者数十人を奏し、太宗はその率直さを嘉した。市物の吏が姦をなすことに因み、列肆がしばしば開封に訴えたため、雑買務を置いて昌嗣にこれを監させた。昌嗣は便殿門に籍を著すことを乞い、非時の入奏を許され、賛と親しく相表裏し、累進して西上閤門副使・鹽鉄都監に至った。
  • 二人が事を連ねると、ますます横恣となりなす事はみな不法であった。太宗はこれを頗る知り左右に問うても、皆二人を畏れ敢えてその悪を言う者がなかった。至道元年の上元節、京城に灯が張られ、太宗は上清宮が成ったことにより臨幸したが、賛と昌嗣はその党数人を邀え妓楽を携え宮中の玉皇閣に登り夜半まで飲宴し、掌舎の宦者もこれを止められなかった。この事が聞こえると太宗は大いに怒り、諸事を摘発し詔により賛の官を奪い、家を携え房州に配し禁錮とし、その日のうちに駅で送った。昌嗣は唐州団練副使に黜せられ事を署さないまま、数日後に道中で二人とも死を賜った。
  • 太宗は侍臣に「君子と小人は芝蘭と荊棘のようなもので、その類を絶やすことはできない、人によって甄別するしかない、もし尽く君子であれば刑罰など何に用いようか」と語った。参知政事の寇準は「帝堯の時代、四凶が朝廷にいたわけで、三代以前の世は質朴で民が淳であっても、すでに小人はいたのです。今、儒服を着て清列にいる者にも頗る小人に朋附して自らの安泰を図る者があります、賛や昌嗣のような賎吏の走狗は言うに足りません」と答えた。