苗劉の変を戒めとしながら再び専横
- 馮益は康王邸の旧人である。王が即位すると入内東頭供奉官から幹辦御薬院に遷り、まもなく皇城司の幹辦を兼ね、旧恩を恃んで驕恣に振る舞った。帝が浙東に幸した際、益は御前右軍都統制の張俊と渡河を争い、言葉で俊を侵し帝に訴え、事は御史台に下された。侍御史の趙鼎は「明受の変(苗劉の変)は内侍から起こった、覆轍は戒めなければならない」と言い、事はやんだ。
- 紹興三年、武功大夫・康州防禦使・帯御器械を授けられた。当時帝は侍御史常同の言を用い、皇城司をすべて台察に隷させる詔を出したが、益は祖宗の旧制ではないと言い、帝はそのために前の詔を撤回し、特に宣政使に遷った。益は自ら藩邸の旧吏であると称し恩を加えることを乞い、明州観察使に昇進した。
- 内厩には元来騏驥院があったが、益は別に御馬院を置き自らこれを領することを請い、また皇城の便門を擅に穿った。侍御史の沈与求がこれを言上し、趙鼎等はみなこれを患いとした。折しも劉豫が山東に榜を掲げ、益が人を遣わし飛鴿(伝書鳩)を収買していると言い、不遜な言葉を含んでいた。張浚は益を斬って謗りを解くよう請うたが、帝は許さなかった。鼎は「事は国体に関わる、職を解いて罰を加えるべきだ」と言い、帝は喜んで「益が外事に交関しているのは聞いており、これ以上長らせてはならない、祠に付し放って帰らせよ」と言った。浚の意はまだ収まらなかったが、鼎がこれを解いた。益はこれより十四年間、家居して廩祠を受けた。
- 以前、偽の柔福帝姫が来た際、自ら王貴妃の末娘と称した。益は自らかつて貴妃の閤にいたと言い、帝はこれに検分させたが、益は詐りに騙され真実だと告げてしまった。事が発覚すると益は検分不実の罪に坐し昭州編管とされたが、まもなく皇太后と姻戚関係にあることにより免ぜられ、十九年(1149年)家で卒した。