山陵の穴を勝手に移し処刑された経緯
- 雷允恭は開封の人。初め黄門となり甚だ慧点で、やや遷って入内殿頭となり東宮に給事した。周懐政が天書を偽ったが、允恭はあらかじめその事を発したことで、懐政の死後、内殿崇班に抜擢され承制に遷り、さらに西京作坊使・普州刺史・入内内侍省押班に再遷した。
- 章献后が初めて聴政した際、丁謂は密かに允恭と結び、機密の事はすべて禁中に伝達させたため、允恭の権勢は中外に横行した。山陵の事が起こると允恭は陵上での効力を請い、章献后は「私はお前が妄動して自ら累を招くことを心配している」と言ったが、山陵都監に任じた。
- 允恭は陵下に馳せ至り、司天監の邢中和が「今の山陵の上百歩の地は法によれば子孫に宜しく、汝州の秦王墳に類する」と言うと、允恭は「なぜそこに決めないのか」と問い、中和は「下に石と水があるかもしれない」と答えた。允恭は「上には他に子がいないのだから、秦王墳のようであっても何の不都合があろうか」と言った。中和は「山陵の事は重大で、踏行覆按には月日を要し、七月の期に間に合わないのではないか」と言うと、允恭は「ただ上の穴に移せばよい、私が馬を走らせ太后に入見して申し上げる」と言った。
- 允恭は常より貴横であったため誰も逆らわず、すぐさま穴を上に改め穿って入りその事を白した。章献后は「これは大事だ、なぜこれほど軽々しく決めるのか」と言ったが、允恭は「先帝に子孫が宜しいようにするのに何を惜しんで不可としましょうか」と答えた。章献后は不然と考え「出て山陵使と可否を議せよ」と言った。当時丁謂が山陵使であったが、允恭がその理由を具に語ると謂はただ唯唯と応じただけであった。允恭は入奏して「山陵使も異議ありません」と言った。
- しかし上の穴を掘ると果たして石があり、石が尽きると水が出た。允恭はついにこれにより金宝を盗んだ罪と併せて死を賜り、その家は籍没された。中和は沙門島に流され、謂もまもなく海上に竄せられた。