大工事を董した敏給の宦者
- 宋用臣、字は正卿、開封の人。人となりは精思彊力で、父の蔭により内省に職を隷した。神宗が東西府を建て、京城を築き、尚書省を建て、太学を起こし、原廟を立て、洛水を導いて汴河に通じるなど、あらゆる大工役を悉くこれが統轄した。性格は敏給で詔令を伝えることに巧みであったため、外事についても諮問されることが多く、同列は皆これを頼って栄進した。廉節に乏しい朝士はしばしばこれに諂附し、権勢は一時に震赫した。積労により登州防禦使・宣政使を加えた。
- 元祐初、言者がその罪を論じ皇城使に降せられ、滁州・太平州酒税の監に謫された。四年、霊仙観を管掌。紹聖初、召されて内侍押班となり瀛州刺史に進んだ。徽宗即位後、蔡州観察使・入内副都知に遷り永泰陵の修奉鈐轄となったが陵下で卒し安化軍節度使を贈られ諡は僖敏。諡議は用臣を「広平宋公」と称し「天子は公の労が久しく外に徙されていたことを念じた」との語があったが、豊稷はこれを論じ「およそ公と称する者は皆耆宿の大臣か郷党の有徳の士に限られるべきであり、『公の労が久しく外に徙されていたことを念じた』とは古の周公の事に該当するもので、用臣に用いるべき語ではない」と論じ、ただ諡の賜与だけにとどめさせ、論者はこれを是とした。