宋史卷四百六十七 列傳第二百二十六 李憲

熙河経略と蘭州死守

  • 李憲、字は子範、開封祥符の人。皇祐中、入内黄門に補せられ、やや遷って供奉官となった。神宗即位後、永興・太原府路走馬承受を歴任し、しばしば辺事を論じてそれが帝意に適い、後苑を幹当した。王韶が上書し河湟の回復を請うと、憲に師を視察させ韶とともに進んで河州を収め東染院使を加え御薬院を幹当した。
  • 牛精谷で戦い珂諾城を抜き、熙河経略安撫司幹当公事として鄜延の軍制を按視した。蒲中に至った折、木征が董氈・鬼章の兵と合わせ踏白城を攻め破り景思立を殺し河州を包囲したため、詔により趣かせられた。憲が軍に馳せ至ると、以前朝廷は黄旗に敕を書き将士に「用命し賊を破れば倍賞する」と諭していたため、憲は朝早く帳中でこれを掲げ衆に示して「この旗は天子が賜ったものだ、これを見て戦え、帝が実際に臨んでいるのだ」と言うと、士は争って用命を叫び進んだ。
  • 諸将を督し山沿いに族帳を焼き払い、その日のうちに道を通じて河州に至った。賊の残衆は踏白を保っていたが官軍は出てこれと戦い大破し、余川に進みまた賊の砦十余を破った。木征は酋長八十余人を率い軍門に降った。捷報が届くと功により昭宣使・嘉州防禦使を加えられ、入内内侍省押班として皇城司を幹当した。安南が叛くと趙禼の招討の副となったが未だ赴任しないうちに、禼が招討副使を置くべきだと建言し軍士は同一の号令に統一すべきと言ったことに憲は含むところを持ち、これによりしばしば紛擾が起きて憲は罷められ、秦鳳・熙河の辺事を乗駅で計議するよう命じられ、諸将は皆その節度を聴くとされた。
  • 御史中丞の鄧潤甫、御史の周尹・蔡承禧・彭汝礪はこれを不可と極論し、また「鬼章の患は小さく、憲を用いる患は大きい。憲が功を成さなければその禍は小さいが、成功すればその禍は大きい」と言ったが、章は再び上げられても聴かれなかった。冷鶏朴が山後の生羌を誘い辺境を騒がせ、木征が自ら討伐に効力しようと請うと衆は不可としたが、憲は「何の害があろうか、羌人は天性として貴種を畏服する」として往かせた。木征が盛装して出ると衆は聳視し闘志を失い、これに乗じて殺獲は万を数え、冷鶏朴を斬った。董氈は懼れすぐに使者を遣わし恭順を誓い、宣州観察使・宣政使・入内副都知を加えられ、さらに宣慶使に遷った。
  • 用兵が連年続き度支の調達が続かなくなると、詔により憲は経制財用を兼ね冗費を十分の六裁減し、歳々西山の巨木を京師の営繕用に運び、瑞応坊の園宅一区を賜った。元豊中、五路から出師し夏国を討つ際、憲は熙秦の軍を領し西市新城に至り蘭州を復してこれを城とし帥府に建てることを請うた。帝はまた憲に興霊への直進を命じ、董氈も往くと称し「機に乗じ協力して巣穴を掃うべきだ、興霊への道が阻まれれば河を過ぎて涼州を取ればよい」とした。そこで兵を東に総べ、平夏の人を髙川石峡で破り、屈吴山に進み打囉城に営し天都に趨き南牟府庫を焼き、葫蘆河に次いで還った。
  • 憲は結局霊州に至れず、董氈も期を失し師は功がなかった。憲は蘭・会を開いた功で責を弭めようとしたが、同知枢密院の孫固は「兵法では期に遅れた者は斬る、まして諸路が皆至ったのに憲だけが行かなかった、赦すことはできない」と迫った。帝は憲になお功があるとして、ただその擅還の理由を詰めるにとどめた。憲は餽餉が続かなかったことを理由とし、誅を免れた。再び挙兵の策と五利による進築を上げ、それに従わせた。折しも李順が入奏し師老い民困窮の状を具に陳べたため、兵を罷めた。憲を闕に呼び寄せ道すがら銀帛四千を賜り涇原経略安撫制置使とし、衛三百を給し、景福殿使・武信軍留後に進んで熙河に戻し秦鳳軍馬も兼ねさせた。
  • 夏人が蘭州に入り西関を破って降した。宣慶使の憲は蘭州が西人の必ず争う地であることから、衆がしばしば河外に至りながらも進まずにいるのは必ず大挙するつもりだと考え、城守・塹壁・楼櫓を増築し備えを整えた。翌年冬、夏人は果たして大挙して蘭州を囲み、歩騎八十万と号したが、十日経っても克てず糧が尽きて引き上げた。また憲に間者を遣わし阿里骨結等を諭させ、騎兵を選び河を渡って賊と遭遇しこれを破らせたが、妄りに功状を奏したとして内省の職を罷められた。
  • 哲宗が立つと永興軍路副都総管に改められ崇福宮を提挙した。御史中丞の劉摯は「憲は功を貪り事を生じ、一貫して欺罔を行い、興霊会師の期を避け、兵を頓めて蘭州を城とし患を今に遺した。永楽の囲みでは逗留し急いで援けに赴かなかった」と論じ、宣州観察使に降せられ、さらに右千牛衛将軍に貶され陳州で分司居住とされ卒した。享年五十一。紹聖元年、武泰軍節度使を贈られ、初め諡は敏恪、のち忠敏に改められた。憲は宦官として将となり、地を拓き敵を降せたが、上を欺き民を害し、ついに中国に患を遺したと評された。