終南隠棲の諫官
- 种放、字は名逸。河南洛陽の人。7歳で文を成し、父の勧める進士を「業未だ成らず」と辞退。父の死後、兄らが仕官する中、母と共に終南豹林谷に隠棲し講学で母を養った。辟穀の術を得て、酒を愛し「雲溪醉侯」と号した。仏教を嫌い仏経を裂いて帷帳にするほどだった。著書に『蒙書』10巻ほか。
- 淳化3年(992年)朝廷の召しに母が「隠者たる者が名を求めて出仕するのか」と怒り、筆硯を焼いて放を諭した。太宗はその節を嘉して緡銭を賜った。咸平元年(998年)母の喪に3日絶食し廬墓、朝廷は葬儀費用を支給した。
- 度重なる召しをようやく受け、咸平5年(1002年)左司諌直昭文館に就任、幅巾のまま謁見。以後、右諌議大夫・給事中・工部侍郎などを歴任しつつ、たびたび辞して山に帰った。真宗は厚遇し詩を贈り、多くの上奏(『時議』13篇)を行ったが、晩年は輿服を飾り長安に広大な田を持ち訴訟沙汰も起こすなど批判も受けた。大中祥符8年(1015年)11月、突然過去の上奏の草稿を焼き道士の衣で酒宴を催し急死。工部尚書を追贈された。