希夷先生
- 陳摶、字は圖南。亳州真源の人。幼くして聡悟、後唐長興中に進士に落第すると禄仕を求めず山水に遊んだ。武当山九室巌に隠棲し辟穀を20余年続けたのち、華山雲台観に移り数百日眠り続けることもあった。
- 周世宗が召して黄白の術を問うたが「治世に専念すべき」と諫め、術を持たぬとして放還された。太平興国中・9年(984年)に二度太宗に朝見、太宗は「摶は独り身を善くし勢利を求めぬ方外の士」と評した。宰相宋琪らの問いに「吐納養生の理はあるが仙術はない、聖上の治世に励むこと以上のものはない」と答え、「希夷先生」の号と紫衣を賜った。
- 端拱2年(989年)7月、弟子賈徳昇に張超谷に石室を築かせ、予告通り同月22日にそこで没した。7日経っても体温が残り、五色の雲が洞口を覆った。著書に『指玄篇』81章など、詩集『三峯寓言』『高陽集』『釣潭集』ほか600余首がある。人の心を見抜く逸話(瓢を欲した道士賈休復、夜に母の急病を予知した郭沆の話など)が伝わる。大中祥符4年、真宗は華陰に幸し雲台観に摶の画像を見て観田の租税を免除した。
- 同時期、開封鄢陵の許瓊は99歳、二子も80代で健在、真宗は召見しその長寿を厚遇。以後、老人の長寿を各州が奏上する慣例が広がった。