序――隠逸伝を立てる由来
- 『易』の遯卦上九に「肥遯無不利」、蠱卦上九に「不事王侯高尚其事」とあり、いずれも高い徳をもって高い地位に処す隠逸を指す。隠者の徳は当世に高く、その由来は遠い。巣父・許由は経に見えぬが、その存在は疑いようがない。
- 五代の乱を避けて隠棲する者は多かったが、宋の興隆後も巌穴に招聘の使いが度々送られた。陳摶のように高蹈遠引して最後まで招致できなかった者もいれば、种放のように召されて大廷で献策する者もいた。それぞれの出処進退が艮卦の「時止時行」の君子に適うものであれば、非難すべきではない。よって隠逸伝を作る。
孟諸集の学者
- 戚同文、字は同文。宋の楚丘の人。幼くして孤児となり祖母に育てられ、その死に哀号し数日食を絶った。楊慤に禮記を学び1年で五経を暗誦、慤の妹婿となった。晋末の乱を厭い禄仕を絶ち、混一を願って「同文」と名乗った。
- 楊慤の没後、その家事を引き受け三世の喪を弔い、趙直の援助で学舎を築き遠方から集う弟子は進士登第者50〜60人に及んだ(宗度・許驤・陳象輿・高象先・郭成範・王礪・滕渉ら)。純朴で信義を重んじ、貧者への施しを惜しまず、財を蓄えず、京師に一度も出仕しなかった。楊徽之は同文を「堅素先生」と称した。長子戚維は隨州で没し73歳。詩集『孟諸集』20巻がある。次子綸は職方郎中に至り81歳で致仕。大中祥符2年、府民曹誠が旧居に書院を建て、綸の子舜賔が主管した。
- 同門の宗翼・張昉・滕知白らも学者として名を残し、それぞれ史材・詩才で知られた。