宋史卷四百五十六 列傳第二百十五 孝義

本巻は孝行・義行によって知られた宋代の人々を集めた列伝。父母の仇討ち、割股・割肝などの身を傷つける孝行、数世・数十世にわたる同居の家、廬墓と瑞祥、身代わりの死など、様々な形の孝義の逸話が数十人分列挙される。太祖・太宗以来、こうした孝子・義門はしばしば門閭の旌表や粟帛の下賜、税役の免除を受けた。

年表(15件)
  • 乾德初李璘が父の仇陳友を京師で刺殺し自首、太祖に釈放される
  • 雍熙中甄婆兒が母の仇董知政を斬殺し太宗に赦される
  • 乾德元年徐承珪の郷里が瑞祥により義感里・和順と改名される
  • 開宝2年969年劉孝忠が太祖親征の際に慰諭を受ける
  • 開宝4年黄德輿が父母を葬るため負土営墳し旌表を受ける
  • 太平興国7年許祚の八世同居750口余りに門閭が旌表される
  • 淳化元年陳氏一族に食糧不足のため毎年粟2000石が貸与される
  • 至道3年郭琮が30年の肉断ちの孝により旌表され徭役を免除される
  • 咸平元年陳思道が兄弟への孝悌により門閭を旌表される
  • 景徳2年方綱の八世同居700口が旌表される
  • 大中祥符4年龎天祐が父の喪に廬墓し門閭を旌表される
  • 熙寧初朱夀昌が50年ぶりに同州で母と再会する
  • 建炎2年趙伯深が離散30余年の母と瀘南で再会する
  • 紹興6年申世寧が兵乱で父の身代わりを申し出て両者とも助かる
  • 建炎元年12月蔡定が父の身代わりを許されず河に身を投げて死す

序――孝義伝を立てる由来

  • 冠冕百行の中で孝より大きいものはなく、あらゆる行いの規範として義より大きいものはない。先王は孝を興して民を厚くし、義を興して民の争いを抑えた。天下がこれに従うのは、信を尽くし順を思う世だからである。
  • 太祖・太宗以来、父の仇を討った者は成長後に赦され、股を刲り肝を割いた孝行者は代々賞賛された。数世同居の家は税役を免除され、百余年にわたり醴泉・甘露・芝草などの瑞祥が史書に絶えず記された。宋の教化はここに見るべきものがある。よって孝義伝を作る。

李璘・甄婆兒――父母の仇討ち

  • 李璘、瀛州河間の人。晋の開運末、契丹侵入の混乱に乗じ陳友が璘の父ら家族3人を殺した。乾德初、璘は殿前散祗候として京師で友と偶然遭遇し、これを刺殺、自ら復讐の事実を申告。太祖は取り調べの上で釈放した。
  • 雍熙中、京兆鄠県の民甄婆兒は、母劉氏が隣人董知政に殺された事件を10歳のときに経験。妹は隣家に預けられた。成長後、寒食に母の墓に詣でた帰り、桑の斧を懐に忍ばせ知政を斬殺。太宗はその孝を嘉し特に赦した。

徐承珪――四十年の兄弟和合

  • 徐承珪、萊州掖の人。幼くして父母を失い、兄弟・一族30人と共に貧を分かち合い40年その操を変えなかった。郷里は瑞祥(木連理・瓜瓠異蔓同実)で聞こえ、乾德元年に鄉名を義感里・和順に改める詔が出た。承珪は賛皇令を務めた。

劉孝忠――割股・然火の孝行

  • 劉孝忠、并州太原の人。母の3年の病に股肉を割き乳を断って食させ、心痛には掌に火を灯して代わりの痛みを受けた。母没後、富家の奴となって葬儀費を得たが孝行を知られ養子となり、養父の失明を舐めて7日で視力を回復させたという。仏に事えて双股の肉を割き灯明を灯した。劉鈞に召され宣陵副使に任じられ、開宝2年(969年)太祖親征の際にも慰諭を受けた。

呂昇・王翰――肝を割き目を治す

  • 呂昇、萊州の人。父権の失明に腹を割いて肝を探り疾を救い、昇自身は死ななかった。冀州南宮の王翰は母の喪明に自ら右目を抉って補い、母の目は元通りになった。淳化中、いずれも粟帛を賜った。

羅居通・黄德輿――廬墓の瑞祥

  • 羅居通、益州成都の人。母の喪に3年廬墓し、甘露・芝草の瑞があり、開宝4年に延長主簿に任じられた。大中祥符初、資州の黄德輿は父母を葬るため土を負って墳を築き甘泉が湧き、旌表を受けた。

齊得一――一族の被害と孝

  • 齊得一、宻州諸城の人。学に長じ多くの弟子を教えた。晋末、密州防禦使皇甫暉の乱で父が客将だったため被害を受け、後任の王万敢の暴政でも一族十余人が殺され財産を奪われた。訴えて朝廷が按鞫し万敢は削官、判官胡輙は死罪となった。開宝中、亷退孝悌の士として推挙され章丘主簿に任じられた。

李罕澄――七世同居

  • 李罕澄、冀州阜城の人。七世同居。漢の乾祐3年に鄉里名を改め門閭を旌表され、太平興国6年に再び旌表された。

邢神留・沈正――父の身代わり

  • 邢神留、深州陸澤の人。父超が官租を滞納し里胥と争って里胥を殴殺した際、16歳で父の身代わりを願い出て死罪を減じられた。端拱初、泰州海陵の沈正も同様に父が屯田院衙官として人を殴殺した際、自ら罪を負って処刑された。

許祚ら――多世同居の諸家

  • 許祚、江州徳化の人。八世同居、長幼781口。太平興国7年門閭を旌表、淳化2年には食糧困窮のため毎年米千斛を貸与された。
  • 同様に多世同居の例として、信州李琳(15世同居)、貝州田祚、京兆惠従順(10世同居)、廬州趙廣、順安軍鄭彦圭、信州俞雋(8世同居)、陝州張文裕(6世同居)、襄州張巨源・劉芳、潭州瞿景鴻、温州陳偘、江陵褚彦逢(5世同居)、徐州彭程(4世同居)がいずれも詔で門閭を旌表された。張巨源は太平興国5年明法及第、劉芳は淳化4年進士出身を賜り、陳偘は母への孝で粟帛を賜り、褚彦逢は至道元年転運使の上表で教練使に任じられた。

胡仲堯・胡仲容――累世聚居と学舎

  • 胡仲堯、洪州奉新の人。数百口が聚居し、華林山に学舎を構え書万巻を蔵し四方の遊学者を厚遇した。南唐李煜のとき寺丞、雍熙2年に旌表され、白金器200両を賜った。淳化中の飢饉には廩を発き市価を下げて賑済し、私財で南津橋を築いた。
  • 弟の胡仲容は淳化5年に召され試校書郎、御書を賜るなど公卿に賦詩で称えられた。仲容は本県の孔子廟を建立、光禄丞に至り天禧中に緋魚を賜り79歳で没した。仲容弟の克順は端拱2年進士、都官員外郎に至った。仲容の子用之・従子用莊・用舟も進士及第した。

陳兢――九世同居の陳氏

  • 陳兢、江州徳安の人。陳の宜都王叔明の後裔。祖の陳伯宣は司馬遷『史記』の注釈で知られ、廬山に隠棲。子孫は江州に義門を築き、田園を家法で管理、僖宗のとき旌表、南唐でも義門として徭役を免除された。
  • 陳昉の代には13世同居、長幼700口。上下姻睦で犬百余匹も一つの槽で共食するほど秩序があった。開宝初、江南平定後も徭役免除が継続。従弟の陳鴻・陳兢の代、淳化元年には食糧不足のため毎年粟2000石が貸与され、陳兢の従弟陳旭は「一族千口が公粟に頼るのに全て受け取り利を貪るのは不義」として半分のみ受納し続け、太宗・張洎から称賛された。大中祥符4年に旭は江州助教、以後藴・泰・度と代々助教を継いだ。

洪文撫――義居六世

  • 洪文撫、南康建昌の人。曽祖洪諤は唐の虔州司倉参軍。六世義居で炊事も共同、至道中に御書を賜り弟の洪文舉が江州助教に任じられた。以後代々子弟が入貢し厚遇を受けた。兄の子洪待用は咸平2年進士、都官員外郎に至った。

易延慶――廬墓と芝草の瑞

  • 易延慶、字は餘慶。筠州上高の人。父易贇は南唐の雄州刺史。父の喪に廬墓し手植えの松柏数百本のそばに紫芝・玉芝が生じた。母の喪でも稱疾して出仕せず、大理寺丞在任中も葬儀のため職を離れ免官となったが再び廬墓、母の好んだ栗の木2本が連理となった。蘇易簡・朱台符が賛美の文を作った。子の易綸は大中祥符元年進士。

董道明――墓中に匿われた孝子

  • 董道明、蔡州褒信の人。母の葬儀の際、墓中に潜み人々に埋められたが3日後に家人が発見し無事だった。終身廬墓した。

郭琮・畢賛――長寿の母への孝

  • 郭琮、台州黄巖の人。母への奉仕に徹し30年肉食を断って母の長寿を祈り、母は百歳まで衰えなかった。至道3年に旌表され徭役を免除。母の死に哀号のあまり衰弱、鄉里が金帛を寄せた。同様に越州応天寺の僧も貧しさから剃髪し托鉢で母を養い、母は105歳で没した。潭州長沙の畢賛は引賛吏として父母(共に80余歳)に孝を尽くし、転運使の上表で解職・終養を許された。

顧忻・李瓊――事母50年

  • 顧忻、泰州泰興の人。10歳で父を失い、母の病のため辛味を50年断ち、朝には必ず冠帯して母の室を訪ねた。母が失明すると刺血して仏経を写し、目が明るくなったという。90余で母は無病のまま没した。杭州仁和の李瓊も母への孝で知られ、母の好物を求めて10倍の値で買い求めた。

朱泰――虎に襲われた孝子

  • 朱泰、湖州武康の人。薪を売って母を養い、山中で虎に襲われ運ばれる途中「母を託す者がいないことだけが心残り」と叫ぶと虎が去ったという。郷里は「朱虎残」と呼んで讃えた。

成象――「成孝子」

  • 成象、渠州流江の人。詩書で教授し孝で知られた。母の病に股肉を食させ、李順の乱で父母が驚死すると号泣して葬り、廬墓し衰服のまま3年、虎豹が周りに伏しても畏れず、燕が百余羽廬に集まり、稲穂が9本つく異変もあった。人は「成孝子」と呼んだ。

陳思道――兄弟の情

  • 陳思道、江陰の人。母兄への孝悌で知られ、母の病に衣を解かず看病、母の喪に7日絶食、葬儀費用を醯(酢)売りで稼ぎ兄を養い、廬墓した。咸平元年、門閭を旌表された。

方綱・龎天祐――八世同居と割股

  • 方綱、池州青陽の人。8世同㸑、家属700口、居室600区。景徳2年旌表、天禧中には税籍が調査され、四百年同居を理由に雑科が免除された。龎天祐、江陵の人。父の病に股肉を割いて食させ、失明した父を舐めて回復を祈った。大中祥符4年に父が没すると廬墓し、知府陳堯咨が門閭を旌表した。

劉斌――兄弟の父の仇討ち

  • 劉斌、定州の人。父が従弟志元に殺され、母の遺言に従い兄弟で仇討ちを果たしたが殺しきれず自首、志元は黥面配流、劉斌兄弟は赦された。

樊景溫・榮恕旻――樹木の連理

  • 樊景溫(陝州芮城)と榮恕旻(雄州帰信)は共に兄弟で長年別居していたが、大中祥符中それぞれの庭木(樗・榆)が異なる家で連理となり、両家は感じ入って再び同居した。

祁暐――廬墓と瑞祥

  • 祁暐、字は坦之。萊州膠水の人。淳化3年進士。母の喪に廬墓、蔬食6年で足指2本を失うほど哀毀し、白烏・白兎が墓に馴れた。旌表され粟帛を賜った。

何保之――負土成墳

  • 何保之、梓州通泉の人。母の喪に土を負って墳を築き廬墓、烏や兎が墓辺に集まった。大中祥符中に旌恤の詔を受けた。

李玭――六墳を築く

  • 李玭、大名宗城の人。母の喪に田を弟に譲り廬墓、2代・諸族の父母の仮葬を全て正式に改葬し3年で6つの墳を築いた。肉を断ち人事を離れ、天禧中に旌表を受けた。

侯義――巨蛇と連理

  • 侯義、応天府楚丘の人。傭田で母を養い、母の言葉に感激して復讐を誓わず孝に専心。母の喪に自力で葬儀を行い、瓜の異蔕・木の連理・巨蛇・野鳩の瑞があった。盗賊も彼の物と知ると盗品を返した。

王光濟・李祚――像を刻んで祀る

  • 王光濟、廬州の人。母の喪に像を刻んで生前同様に仕えた。咸平2年旌表。徐州豊の李祚は27年廬墓、益州双流の周善敏も廬墓し母の病に股肉を捧げた。大中祥符9年に旌表と粟帛を賜った。

江白――負土営葬

  • 江白、建昌の人。景徳2年進士。父江禹錫の節義により嘉美され、白自身も葬儀のため土を負い廬墓、藜羹と草鞋で服喪を貫き、粟帛・醪酒を賜った。

裘承詢ら――多世同居の諸家

  • 裘承詢、越州会稽の人。19世同居。以後、保定軍孫浦・襄州常元紹・蔡州王美・解州董孝章(各10世同居)、莫州髙珪・永定軍朱仁貴・潞州邢濬・相州趙祚(各8世同居)、麟州楊榮・隰州趙友・開封李居正・頴州張可象・衛州張珪・滄州崔諒(各7世同居)、邢州王覚・趙州曹遵(各6世同居)、兖州童升・陳州樊可行・京兆元守全・平定軍段徳(各5世同居)、開封張仁遇・亳州王子上・建昌軍瞿肅(各4世同居、瞿肅家は150口)が旌表され、河陰王世及・大名李宗祐・陳州劉閏・宣州汪政・潭州李耕らは700口規模の聚居として課調を免除された。大中祥符初、東封泰山の際に曲阜竇益ら、祀汾陰の際に陜州張化基・閻用和・楊忠義らも孝悌により褒賞された。

常真――負土成墳と割股

  • 常真、陳州項城の人。父母の喪に廬墓、周の広順中に旌表、開宝7年再び旌表。妻は病んだ子の晏に股肉を食させて回復させ、次子守規も廬墓3年を貫いた。太平興国8年に旌表。同様に斉州王洤・河南李継成・滄州胡元興も母の喪に負土成墳し旌表を受けた。

杜誼――泥水を渡る負土

  • 杜誼、字は漢臣。台州黄巖の人。父母の喪に泥水を渡り10余里を負土往来、皸裂した手足の血を漆で塗って作業を続けた。呉越の大水害でも墓地だけ被害を免れたという。族父の遺産を子らに分与し、賛善大夫の廕位を得て永城県令のとき溺死者を弔うなど善政を敷いた。

姚宗明――十世廬墓の家系

  • 姚宗明、河中永楽の人。10世祖の姚栖雲が唐貞元中に兄に代わり戍役に赴いて戦没、その子栖雲は伯母に育てられ、伯母の死に廬墓し父の招魂葬も行った。県令蘇轍が墓地を買い与え、旌表を受け「孝悌社」「節義里」「敬愛」の名が与えられた。子孫は代々廬墓の風を継ぎ、慶暦初に姚氏10世同居として仁宗の詔で復除された。以後、姚宗明の代まで13世、300余年にわたり孝睦の家風が保たれた。

鄧中和・毛安輿・李訪――廬墓の諸例

  • 鄧中和、字は祖徳。開封長垣の人。景祐・慶暦間、親の喪に20年廬墓し高さ3丈の墳を築いた。毛安輿、嘉州洪雅の人。9歳で父を失い廬墓3年。李訪、韶州の人。父母の墓に虎の害なく白烏が集まった。

朱夀昌――母を50年探し当てる

  • 朱夀昌、字は康叔。揚州天長の人。父朱巽の蔭で将作監主簿より歴任、知岳州では盗賊対策に船籍制度を導入して功をあげ、知閬州では殺人事件の真相を暴いた。
  • 母の劉氏は父の妾で、夀昌が幼い頃に出され、以後50年間行方不明だった。夀昌は仏法により灼背・刺血写経までして母を探し続け、熙寧初、辞官して秦に入り同州で母(70余歳)を発見、家族全員を迎えた。王安石・蘇軾・蘇轍らが詩でその孝を称えた。
  • 母の喪に哀毀し、司農少卿・中散大夫を歴任し70歳で没した。義に篤く、兄弟の孤女2人を嫁がせ、葬れない喪十余りを自ら葬った。

侯可――財を軽んじ義を重んじる

  • 侯可、字は無可。華州華陰の人。若くして倜儻だったが学に転じ、進士の路銀の残りを同挙者に分け与えた。孫沔の儂智高討伐に従軍し功を得て化城県知事、巴俗の巫習を改め貧女の婚姻難を制度で救った。
  • 華原主簿として質入れされた田を晨に発いて主に返還、涇陽県知事として渭源の羌族を懐柔し韓琦に功を認められた。友の田顔の死に際し葬儀を自ら営み、貧窮者に金を施すなど義行が多く、関中の人々に称された。72歳で没した。

申積中――養父母への孝

  • 申積中、成都の人。楊繪の養子となったが実父母を知り絶口せず、19歳で進士登第し養父母に終生孝を尽くした後、本族に復した。政和6年、翰林学士許光凝の推薦で永興軍学事提挙となり任地で没した。同時期に薦められた大理丞陳芳(14世同居300年)、鄧州王襄(孀嫂を母のごとく養う)も表彰された。

郝戭――致仕して父に仕える

  • 郝戭、字は伯牙。石州定胡の人。貧のうちに親を養い、50歳未満で致仕を願い出て父のために官を求めた。父の死後は仕官を拒み続け、司馬光がその墓誌を書いた。

支漸・鄧宗古――廬墓の瑞

  • 支漸、資州資陽の人。70歳で母の喪に廬墓、白蛇・狸兎・白鵲・五色雀などの瑞があり、郷人旬文鼎を感化した。鄧宗古、簡州陽安の人。父の喪に廬墓、甘露が墓木に降り「鄧孝子」と称された。

沈宣・蘇慶文・仰忻ら――元豊年間の褒賜

  • 沈宣、汝州梁の人。母の喪に墓門を塞がず36ヶ月廬墓、妻高氏も孝行で知られた。蘇慶文・蘇臺亨、夏県の人。慶文は母への孝で妻を戒め、臺亨は画工として第一の腕を持ちながら父の老を理由に官職を辞退。仰忻、字は天貺。温州永嘉の人。母の喪に廬墓し慈烏・白竹の瑞があった。いずれも元豊中に粟帛を賜った。

趙伯深――30年の母探し

  • 趙伯深、字は逢原。棣州兵官の子として金軍侵攻で母と離散、建炎2年帰還した父も没し、30余年母を探し続け瀘南で再会を果たした。曽慥がその孝を詩で称えた。

彭瑜・毛洵・李籌・楊芾ら――割股と廬墓

  • 彭瑜、字は君玉。吉の安福の人。母を10余年探し続け泰和で再会した。毛洵、字は子仁。吉州吉水の人。天聖2年進士。父母の喪にそれぞれ廬墓、21ヶ月喪に服した。兄の毛溥も哀毀で舟中で没した。
  • 同県の李籌・李衡兄弟は幼くして父母を失い、母を改葬した墓側の木が連理となった。楊芾、字は文卿。紹興5年の飢饉に親のため米を運ぶ途中盗賊に遭い、「親のための米を奪わないでくれ」と訴え解放された。

楊慶・陳宗――割乳・割股の孝

  • 楊慶、鄞の人。父の病に股肉を、母の病に右乳を焚いて薬とし治癒させた。守仇悆は韓愈の「鄠人対」を引きつつも、その誠を評価し門閭を旌表した。陳宗、永嘉の人。母の病に股を刲ったが母は没し、陳宗も哀慟のあまり没した。郡守陸徳輿は「毀傷は正道でないが天性の至り」として合葬し「陳孝子墓」と榜した。

郭義――甘露と烏鵲の瑞

  • 郭義、興化軍の人。太学に学び、母の喪に徒歩で奔喪、廬墓し甘露・烏鵲の瑞があった。門閭を旌表され綽楔(表彰の柱)が建てられた。

申世寜・苟與齡・王珠――孝の逸話

  • 申世寧、信州鉛山の人。紹興6年の兵乱で父の身代わりを申し出て賊に感じ入られ両者とも助かった。苟與齡、字は夀隆。滁州来安の人。母の墓に芝19茎が生じた。王珠、字は仲淵。吉州龍泉の人。父母の喪にそれぞれ竹・霊芝の瑞があった。

顔詡・張伯威――義門の家法

  • 顔詡、唐の顔真卿の後裔。吉州永新の人。継母への孝で知られ、千人規模の一族を厳格な家法で治めた。張伯威、大安軍の人。祖母・継母の病にそれぞれ臂の肉を割いて薬とし回復させ、妹も同様の孝を行った。知大安軍羅植は伯威の家に「純孝坊」、妹の嫁ぎ先に「孝婦坊」を建てた。

蔡定――父の代わりに死を選ぶ

  • 蔡定、字は元応。越州会稽の人。父蔡革が獄吏の職務上の誤りで70余歳にして繋獄され、定は代わって囚われることを幾度も願い出たが許されず、建炎元年12月、自ら河に身を投げて死んだ。府帥はこれを「真の孝」と称え、父を釈放し葬儀を厚くした。

鄭綺・鮑宗巖――九世同居と身代わりの孝

  • 鄭綺、婺州浦江の人。9世不異㸑。4世孫の鄭徳珪・徳璋兄弟は仲睦まじく、宋滅亡後、徳璋が仇家に死罪を着せられそうになると徳珪が身代わりを申し出て自ら獄死し、徳璋は悲嘆のうちに兄の遺骨を葬った。
  • 鮑宗巖、字は傅叔。徽州歙の人。子の鮑夀孫、字は子夀。宋末の盗乱で宗巖が賊に捕らえられ殺されかけた際、夀孫が父の身代わりを申し出て賊が両者を釈放した。