宋史卷四百五十四 列傳第二百十三 何時

何時(陳子敬附)

  • 字は了翁、撫州楽安の人。文天祥と同年の進士。廬陵尉に調任され、まもなく江西転運使幕府に入り、還って臨江軍司理参軍となった。郡の獄で古くから伝わる話に、かつて斬られた盗の屍がなお一里ほど歩いたとされ、人々はこれを神と見て肉身の臯陶(伝説の刑官)として祀っていたが、時はその祠に至り旧文書を調べ、その盗がかつて数人を殺していたことを知り「これが神と呼べるか」と述べ像を鞭打たせ水に沈めさせたところ、人々はその明断に服した。興国知県に転じ、天祥が挙兵すると帥府機宜・帯行監文思院に招かれ、天祥が臨安防衛に赴く際、留司として吉州の饟運(兵糧輸送)を分司し平江に赴いたが、天祥が上奏し時を撫州知州、吉州が陥落したため脱出し郷里へ帰った。益王即位後、天祥が南剣に開府すると、時は挙兵し興国に赴き接応し帯行監江西提刑に任じられ兵を集め崇仁県を回復したが、まもなく大軍が至り兵は敗れ、時は髪を剃って僧となり嶺南に姿を隠し占いを生業として名を変え「堅白道人」と号した。また陳子敬という者がおり贛州の人で財を資本に郷里で羽振りをきかせ、かつて天祥と交遊していた。天祥が汀州に開閫すると子敬は民兵を募り皁口に屯し下流を押さえ、天祥が贛を攻めると子敬はこれに合流して謀り忠効が著しかった。空坑の戦いで敗れると再び兵を集め黄塘砦に屯し山砦と連結して降らなかったが、大軍が重兵で砦を襲い砦は潰え、子敬の消息は分からなくなった。