劉子薦(黄文政附)
- 字は貢伯、吉州安福の人。父・夢驥は進士出身で澧州知州を歴任し国事に殉じた。子薦は父の任により湘郷尉となり捕盗の功で撫州司録に転じた。ある訴え(王応亨が荷担ぎの黄九を殴り殺したとされる事件)で獄がほぼ確定していたが、子薦は受け取った文書に疑いを持ち駁したところ、烈風と雷が獄戸を裂き吏が実は孔目の馮汝能が犯人で王応亨ではなかったことが判明、獄は雪がれ死を免れた者八人を数え、事が上聞し全国の理官に諭達された。贛県知県に転じ、行在左蔵庫を監督、常徳府通判・融州知州を歴任した。陛辞の際、度宗が「広郡は疲弊しているが卿を頼みとする」と慰めると、子薦は「臣は徳化を行き渡らせ民を安んじます」と答えた。任地では廉静で評判が高く、仙都観主管、広西経略司に招かれ参議官となる。徳祐二年十一月、北兵が静江に至ると、権経略使・馬塈は子薦に猺兵・薬弩手を率いさせ城の東門を守らせたが支えきれなかった。当時瀛国公はすでに燕に入っており、子薦は笏を取り「我が頭は断てても膝は屈せぬ」と書き付け、城に登って北を望んで再拝し、着ていた袍を脱いで埋葬させ、左右に「事は急を告げている、私は死をもって守るしかない、諭す者があれば逃げよと言え」と告げ、子薦は「死は義のためだ、なぜ逃げようか」と答え、ついに死んだ。黄文政という者は淮の人で蜀に戍り軍が潰えたため間道を通り静江に逃れ、馬塈は招いて共に守らせたが城が破れると捕らえられ、大いに罵り屈せず、大軍は舌を断ち劓刖(鼻と足を切る刑)に処したが、文政は含糊としながらもなお叱咄し死ぬまで声が絶えなかった。