宋史卷四百五十三 列傳第二百十二 劉晏

劉晏

  • 字は平甫、厳州の人。遼に入って進士に及第し尚書郎となった。宣和四年、数百人を率いて宋に帰参し通直郎を授かった。金人が京師を犯すと晏は遼東兵を総べ「赤心隊」と号された。建炎初、劉正彦に従い淮西の賊・丁進を撃った際、進の党は多かったが晏の率いる赤心騎はわずか八百で、五色の旗を作って騎兵に持たせ山を巡らせ回り、一色が尽きればまた一色を用いさせたため、賊は官軍が数日絶えず旗色を変えて現れると錯覚し、戦わずして降伏した。朝散郎に進んだ。正彦が反乱を起こすと晏は部曲に「私が逆党に従うことがあろうか」と述べ、衆を率いて韓世忠に帰参した。世忠が正彦と苗傅を浦城で追撃した際、晏は騎六百で浦山の陽で疑兵となり賊は大いに驚き、晏は所部を率いて力戦、正彦がついに捕らえられると世忠は上奏して晏に一官を加えた。金人が建康を犯し杜充の軍が潰えると世忠は江陰へ退き、晏は赤心の兵百五十騎を率いて青龍に屯した。羣寇が常州を犯すと郡守は晏に援軍を求め、晏は精鋭七千で奇策を用いて破った。直龍図閣に進み、馬跡山を保って寇を防ぎ、寇が再び至ると晏は舟師で迎撃しその衆千五百人を降した。郡人は晏のために生祠を立てた。戚方が宣城を急襲すると晏に援軍が命じられ、晏は城下に至るや営塁を築く暇もなく不意に方の本陣を突撃、方は大いに驚いて退いた。晏は方を生け捕りにしようと単騎で追ったが方の衆に迎撃され、力戦して数十人を殺したものの賊に害された。事が上聞し龍図閣待制を贈られ子四人が登用され、死地に廟が立てられ「義烈」と称され歳時に祀られた。