劉化源
- 耀州の人。紹聖元年進士。建炎初、金人が陝右を陥落させ守令の中で城を挙げて降った者を金は現地の官に留めたが、化源は当時隴州知州で降らず、城が陥落すると捕らえられたが金人は死なせず河北へ連行し野菜果物を売って民間に隠れ十年間屈しなかった。米璞という者が化源と同郷の出で西人の敬うところであったが、政和二年進士に登第し原州通判のとき劉豫が官を与えようとしたが門を閉ざし病と称してついに偽命に染まらなかった。劉長孺という者もまた耀州の人で当時博州判官庁公事を代行しており、豫に書を送り祖宗の徳沢を詳しく述べて禍を転じて福となすよう勧めたところ、豫は怒って官を剥奪し百日間投獄したが長孺は最後まで屈せず、豫はのちに官を復させたが従わなかった。紹興九年、宣諭使・周聿がこれを朝廷に伝え、詔により行在に召し寄せられ、簽書枢密院事・楼炤は璞が風痺(中風)に苦しみ化源・長孺も老病であることを言上し、それぞれ二官を進め奉祠とすることが命じられた。また新鳳翔教授・陰晫が節を守り出仕しないことを述べ、詔により特に令に改めた。のち金が再び盟を破ると長孺は華陰県に至り屈せず死んだ。李嚞という者は開封の人で宣和六年進士、建炎中彭陽知県となり、これも降らず民とともに境上に移り金人に捕らえられ献じられた。金人が官を与えようとすると三度辞退し、その後金人が帰附の恩賞として儒林郎に任じたが、嚞は所司に「私はかつて俘獲された身、あえて帰附の賞を受けられない」と述べその牒を返した。劉麟がその賢才を聞き張中孚に礼をもって招かせたが力を尽くして拒み、紹興九年、原州で死んだ。事が上聞し奉議郎を贈られ家族一人が登用された。