宋史卷四百五十三 列傳第二百十二 宋昌祚

宋昌祚

  • 和州鈐轄。建炎二年、兀朮が和州を犯すと州人は昌祚を推し軍事を権知させ衆を率いて堅守した。金人が城を幾重にも包囲すると禁軍左指揮使・鄭立も勇猛忠憤で共に激励し士は昼夜備禦を怠らなかった。数日後、軍士・胡広が弩を放ち兀朮の左腕に命中させると兀朮は大いに怒り砲を雨のように撃ち、弩を撃った場所を狙って城が破られ、金人は入城して城を屠った。昌祚は権倅・唐璟、歴陽令・蹇誉、司戸・徐兟、県尉・卲元通、および立・広とともに譙楼上で死に、体を切り裂かれ晒された。軍士の多くは降らず柵を突破して西へ出て麻湖の水砦を保ち、郷豪を統領に推し朝廷に伝えたため趙霜が和州鎮撫使とされた。昌祚・璟・誉・兟・元通にはそれぞれ官が贈られ子弟が登用された。