呉楚材
- 名は炎、字で通称。建昌南城の人。徳祐元年、建昌が降伏、翌年春、楚材は郷里に戻り村を糾合して民兵を集めた。江西制置使黄万石は邵武に逃れており、邵武知州黎靖徳が万石に援軍を乞うと万石は許さず、楚材を廸功郎・権制置使計議官に任じて安んじさせ、挙兵を戒めた。楚材は聞かず二月己亥、村から衆を率い朝食もそこそこに攻城の構えを見せ鉦鼓を鳴らして進んだが、近郊の亀湖で北兵三道から攻められ長梯・鉄鈎を奪われ、村に籠って木柵で防いだが敗れた。事が上聞し、益王元帥府は楚材を宣議郎・帯行太社令・建昌軍知軍に任じ再挙を図らせたが、万石はその命を隠した。楚材は敗戦の後援軍も乏しく、大元軍の誘いに衆の多くが離散したため光沢に逃れたが人に捕らえられ、子・応登とともに献上された。郡は録事・婁南良に取り調べさせ「なぜ誤った挙に出たのか」と問うと、楚材は声を励まし「誤ってはいない、府録(婁南良)のようなふるまいこそ大きな誤りだ、府録は宋の官爵を受けながら今は敵に使われている、その身にまとう緑袍がどこから来たか思い返せ。私は一介の田舎儒者に過ぎないが、忠義に激せられ国のために力を尽くした、事は成らなくとも誤りではない」と答えた。南良は恥じて言葉を失った。呉浚が江西制置招討使となると楚材父子を斬り首を諸邑に晒した。益王が福州に立つとこれを哀れみ、朝奉郎を贈り邵武境上に廟を立て「忠勇」の名を賜った。