龔楫(蔣子春附)
- 字は済道、兵部侍郎・原の孫。世々儒学で知られる家柄で楫はか弱く衣にも堪えられぬほどであったが、建炎初、金人が郡県を陥落させたと聞くたび憤り食を断ち、何とか自ら見せ場を作ろうと願いながら機会がなかった。兀朮が和州を占拠し偏師万人で新塘に堡を築き濡湏の路を遮断すると、楫は家僮百余人を率いてこれを襲い、郷里からの従者三千余人を得て千戸二人を捕虜とし、囚われた者数百人・輜重も多く得た。掠われた州民を放って父母妻子に会わせ、滁和鎮撫司に帰ろうとした際、金兵の大軍に遭遇し圩上を道に選んだが金の騎兵に衝かれ多くが水に落ちて死んだ。楫は衆に「今日闘って死ぬことこそ義士と呼ぶにふさわしい、自ら溝に棄てられるのは無益だ」と麾し、戦って敗れ金人に捕らえられたが、なお剣で敵一人を刺し口を極めて罵り続け、金人はこれを臠割(体を切り刻む刑)にした。享年二十二。金人が初め新塘に至ったとき、里中で教授していた蔣子春という者がおり、金人はその挟む書物と秀でた容姿を見て官に取り立てようとしたが、子春は怒り罵ったため殺された。