宋史卷四百五十二 列傳第二百十一 劉惟輔

劉惟輔(髙子孺・韓青附)

  • 涇州の人。同州観察使として熙河馬歩軍副総管となる。金人が秦州を得ると経略使張深は惟輔に三千騎を率いて防がせた。金の前軍が鞏州を越え熙州から百里の距離に至ると、惟輔は熟羊城に軍を留め千八百騎で夜に新店へ向かい、夜明けに進んで白兵戦となり多くを殺傷、惟輔自ら矟を振るい先鋒の孛堇黑風洞を刺して胸を貫き落馬させ殺し、敵は気勢を失って退いた。深は隴右都護張厳を追撃に向かわせ鳳翔境まで至ったが、惟輔は厳の指揮に従わず別道から吾山を経て宝鶏に出て金の遊騎を捕らえた。厳は大軍を擁して金人を五里坡で追ったが、金は坡下に伏兵を置いていて厳は曲端との会合を待たずに前進し伏兵に遭い戦死した。惟輔は石鼻砦から退いた。金人が熙河を掠めると惟輔は撤退の際、熙河になお備蓄の粟があり金人が守備に用いるのを恐れてすべて焼き払った。金人が追ってきて所部はみな逃げ散ったが、惟輔は親信数百人と山寺に隠れ、夏国に投じようと使者を送ったが夏国は受け入れず、逆に親信の軍は金人に降ってしまった。金人は惟輔を捕らえて誘降したが百方尽くしても口を割らなかった。金人は怒って引きずり出したが、惟輔は首を上げて「死ぬなら犬でも斬られる、この頭を斬ればよいだけの話、お前が引きずる必要があるものか」と言い、座上の客に「国家はお前を裏切っていないのに、たちまち敵に降るというのか」と言ったまま口を閉ざして死んだ。張浚がこれを聞き承制により昭化軍節度使を贈り、賻金帛布あわせて二百に相当する額を与え、子孫十二人を登用し、成州に廟を立て「忠烈」の号を賜った。高子孺は狄道の人で蘭州龕谷砦知砦を務め、惟輔がなお存命と聞き固守を続けたが城が陥落する際、まず家族を刃にかけてから自ら死んだ。韓青は熙河馬歩軍第六将で、間道を通り惟輔に従っていたが金人に捕らえられ、罵り続けて死んだ。