宋史卷四百五十二 列傳第二百十一 陳淬

陳淬

  • 字は君鋭、興化軍莆田の人。紹聖初、下第して策を携え西に遊学。呂恵卿が鄜延を鎮した際、淬は戎装で見えると、恵卿が「見えて何の用か」と問うと「大丈夫が大丈夫に見えるのに理由が要ろうか」と答え、恵卿はその器量を認め三班奉職に補し、西人と烏原で戦い十余人を手ずから殺し砦主を捕らえたので左班殿直に奏され鄜延路兵馬都監となった。累進して武経郎となり父の喪に服し、宣和四年に召されて真定路分都監兼知比砦河北第一将となり、まもなく忠州団練使・真定府路馬歩副総管を拝した。七年、金人が真定に入ると淬は孤軍でこれに抗い、妻子八人が殺害された。建炎元年、諸軍統制に招かれ、宗沢の命で金人を南華で撃破し、大名府路都総管兵馬鈐轄を兼ね、恩州知州に抜擢された。金の種族出身の王善が十万の兵を擁して両河を席巻し恩州を襲うと、淬は長子・仲剛とともに戦い敗れかけたところ、刃が淬に及ぶと仲剛が身をもってこれを防ぎ死んだ。翌年、善が再び陳州を包囲すると淬は大いにこれを破り、宿州安撫使を拝した。李成の反乱に対し詔により淬を御営使・六軍都統・淮南招撫使として討伐にあたらせ、三戦三勝した。まもなく金人が采石を犯すと淬に建康救援が命じられ、淬は中軍を、戚方は前軍を、王□(底本欠字)は後軍を率いた。淬は「彼らの兵は多いといっても二十艘に過ぎず、一艘に五十人以下、毎回来るのは千人にも満たない。私が葭蘆の茂みに伏せておけば、渡り終えるまで互いに気づかれず全員捕らえられる」と献策したが、杜充は従わなかった。金兵はついに板橋を犯し諸軍は潰えたが、淬は独り戦い勢窮まり胡床に座したまま大罵して刃が胸を貫いても顔色を変えず、甥の仲敏とともに死んだ。詔により拱衛大夫・眀州観察使を贈られ、子一人・婿一人が登用された。