宋史卷四百五十二 列傳第二百十一 呉革

呉革

  • 字は義夫、華州華陽の人。国初の勲臣・廷祚の七世孫。若くして学を好み用兵を論ずるのを好み、二度礼部試に落第すると涇原軍に従い秉義郎として経略司公事を幹辦した。金人が南下し遼州の包囲を解く際、粘罕の軍に見えて庭揖して拝せず、貪利と背約を責め、言葉は率直で気迫があったため粘罕もやや譲り、威勝諸屯兵に回されて書を持たせ帰らせた。欽宗が割地の利害を問うと「金人には呑噬の意があります、闗中の士馬をすべて起こして備えるべきです」と答え、武功大夫・閤門宣賛舎人として節を持ち陝西に諭すよう命じられたが、朱遷まで来て金人の京師侵攻を聞き引き返し、張叔夜とともに入城した。帝に秦州行幸を願い、また城を出て敵を襲い近づけぬこと、諸門から同時出兵し牽制・衝突・尾撃・応援を行い一戦で勝てることを進言したが、皆すでに衆議に阻まれ実現しなかった。のち金兵が安上門を攻め道を埋めて濠を渡ろうとした際、革は蔡河の水を決壊させて灌ぐ策を進言したが聞き入れられず、道が埋め尽くされる頃には水はすでに涸れていた。車駕が金営に行幸すると、革はこれが敵の計略にはまったと考え、張叔夜のもとへ行き自ら大首(元帥)に会おうとし、その理由を問われると「この行には三つの結末しかない、一は天子が宮中に戻ること、二は金騎が帰国すること、三は私が死ぬことだ」と述べた。叔夜がこれを伝えたが応じられなかった。上皇・妃后・太子が郊外に出されると、革は孫傳に留め置くよう願い出たが叶わず、傳とともに啓聖僧院で振済局を開き士民に食を施し、一日で万を数える者が集まった。密かに軍法で編成し金営攻撃を計画、まもなく同文館に移り、その勢力は数万に達し、多くは両河の驍悍な兵であった。まもなく張邦昌を立てる議が起こり、革は范瓊らをまず誅殺してから三月八日に挙兵する計画を立てたが、期日の二日前に班直甲士数百人が門を破って入り、邦昌が七日に冊封を受けると告げ急ぎ事を起こすよう求めた。革は甲を着て馬に乗り咸豊門に至ったが、四方はみな范瓊の党であり、革を帳中に騙し入れて捕らえ、寝返るよう脅した。革は口を極めて罵り、脛を差し出して刃を受け、顔色一つ変えなかった。その麾下百人もみな死んだ。