宋史卷四百五十一 列傳第二百十 密佑

密佑

  • 先祖は密州の人で、のち淮を渡り廬州に居住した。佑は剛毅で質朴、廬州駐劄御前遊撃中軍統領を経て権江西路副総管に改まり、咸淳十年、閤門宣賛舎人として江西都統に任じられた。この冬、大元丞相バヤン(伯顔)が鄂州を下すと右丞アリハイヤ(阿里海牙)にこれを守らせ、大軍を率いて東進した。翌年二月、朱禩孫が高世傑を遣わし鄂州を奪回しようとしたが、アリハイヤはこれを迎え撃ち高世傑を荊江口で捕らえ、兵の半数が江西に潰走した。江西制置使黄万石はこれを収集し、寧都・広昌・南剣の義兵千余人を募って佑に統率させた。十一月、大軍が隆興に至り劉槃が敗れて籠城すると、万石は撫州に治所を移し逃げようとし、佑がついてこないことを恐れて佑の兵を隆興救援に向かわせながら「戦うな」と戒めた。しかし隆興に着く前に劉槃はすでに降伏し、都統夏驥は所部の兵を率いて包囲を突破していた。元帥張栄実・呂師夔が撫州に迫ると、佑は衆を率いてこれを迎え、進賢坪で敵に「降るのか、戦うのか」と呼びかけられると「戦う」と答え兵を率いて突戦、龍馬坪まで進んだところ大軍に幾重にも包囲され矢が雨のように降った。佑は部下に「今日は死ぬ日だ、力戦すれば生きる望みもある」と告げ、皆奮い立ち、辰の刻から日が傾くまで戦った。佑は顔に矢を受けても抜いて再び戦い、さらに四矢三槍を受け、部下は皆討死し数十人しか残らなかった。佑は双刀を振るって囲みの南を突破し、橋を渡ろうとして馬が橋板を踏み抜き捕らえられたが、その勇を見た者は殺すなと戒め輿で隆興に運んだ。元帥・宋都棘は「壮士だ」と言い降そうとし、一月余り拘束したが屈しなかった。かつて黄万石を「国を売る小人だ、わが志を伸ばせなかったのはあいつのせいだ」と罵った。宋都棘は劉槃・呂師夔に城楼から佑に金符を見せ官職を約させたが受けず、槃・師夔を罵ると彼らはますます無礼になった。また佑の子に説得させ「父が死ねば子はどうなる」と言わせたが、佑は子を「お前は市で乞食をして『密都統の子だ』とさえ言えば誰でも憐れんでくれる」と叱り、平然と衣を脱いで刑を受け、死んだ。見物する者は皆涙した。