姜才
- 濠州の人。容貌は短躯で猛々しく、若くして河朔に掠われたがやや長じて逃げ帰り、淮南の兵に加わり善戦で名を知られた。しかし帰順の身のため大官には就けず通州副都統となった。淮に多くの猛将がいたが、姜才ほど驍勇な者はいなかった。用兵に長け騎射に巧みで、士卒を慈しんだが軍紀は厳しく、その子が戦況を報告に来たとき敗戦かと思い剣を抜いて追いかけ殺しかけたほどであった。賈似道が出師した際、才は孫虎臣の下で先鋒を務め丁家洲で対峙、大軍が砲・架彀車を連ねて江中に布陣し、才が奮戦し接戦となったところ虎臣が妾の乗る船に逃げ込むのを兵が見て「歩兵は逃げた」と噂し軍が潰えた。才は兵を収め揚州に入った。大軍が勝ちに乗じて揚州を攻めると才は三畳の陣を敷いて三里溝で迎撃し戦功をあげ、また元帥と揚子橋で戦った際、日暮れに乱れた流矢が肩を貫いたが才は矢を抜き刀を振るって進み、敵は避けて退いた。まもなく大軍は揚子橋から瓜州、東北は湾頭、黄塘、西北は丁村務まで長囲を築き、揚州を長期に困らせようとした。徳祐元年の頃である。翌年正月、宋は滅び、二月、五奉使と一閤門宣賛舎人が謝太后の詔を持って降伏を勧めに来たが、才は弩を放って追い返し、さらに兵を率いて五奉使を召伯堡で襲撃し大戦して退けた。まもなく瀛国公が瓜州に至ると、才は李庭芝とともに涙して将士に誓い、金帛をすべて散じて兵を犒い、四万の兵で夜に瓜州を襲ったが三時(六時間)戦っても瀛国公は救出できなかった。浦子市まで進んで戦ったが夜になっても退かず、アジュ(阿术)が降伏を勧めても「私は死ぬとも、どうして降将軍になろうか」と拒んだ。四月、才は灣頭柵を攻め、五月にも再攻したが騎兵が泥に阻まれ、歩兵で四更まで戦い全軍を率いて帰還した。揚州の食糧が尽きると才はしばしば真州・高郵から米を運んで供給した。六月、餉を護送中に馬家渡で万戸史弼の軍に奪われ、才は夜明けまで戦い弼をほぼ追い詰めたがアジュの援軍が来て逃げられた。李庭芝は長期の包囲に疲れ才を呼んで密議し、左右を退けて長く語らったが、聞こえてきたのは「相公は暫くの痛みを忍ぶだけでよい」という才の厲しい言葉だけで、周囲は皆汗をかいた。以後才は兵で李庭芝の邸を護り、生死を共にすることを期した。七月、福州の益王が龍神四廂都指揮使・保康軍承宣使に任じたが、才は李庭芝とともに東の泰州に向かい海に逃れようとした。アジュが兵を率いて追撃し泰州を包囲、揚州の兵士の妻子を城下に連行して降伏を促した。才は疽が背に発症し戦えなくなり、諸将がついに開門降伏し、都統曹安国が才を寝所で捕らえて献上した。アジュは才の忠勇を愛し降して用いようとしたが、才はでたらめを言って拒み続けた。アジュが李庭芝の不降を責めると、才は「降らぬのは私だ」と言い、なおも憤慨し続けたためアジュは怒り、揚州で処刑させた。刑場に夏貴が現れると、才は歯ぎしりして「お前は私を見て恥じないのか」と罵った。
- 洪福という者は夏貴の家僮で、貴に従い功を積み鎮巣雄江左軍統制となった。鎮江が北にあるとき貴が降ると、福と子の大淵・大源は下班祗候の彭元亮に率いられ貴の軍を継続、右武大夫・知鎮巣を加えられた。貴が元に臣従すると福を招いたが応じず、貴は甥を遣わして福を斬らせようとしたが大軍が長く城を攻めても落ちず、貴を城下に送り甘言で誘わせた。福はこれを信じて単騎で入城しようとしたところ、門が開いて伏兵に捕らえられ、家族もろとも殺された。貴は涙しつつ大源・大淵を殺し、「法は首謀者を誅するに止まるのに、なぜ一家皆殺しにするのか」と叫んだ。福は「一命をもって宋朝に報いるのに、なぜ命乞いをして生きようとしようか」と叱りつけた。次に福自身の番になると、貴を大いに罵り「南を向いて死に不忠でないことを示したい」と願った。聞く者は皆涙した。