襄陽救援
- 張順は民兵の部将。襄陽が五年にわたり包囲される中、宋側は西北の清泥河(水源は均房)から軽舟百艘を仕立て、三舟を一組とし中央に荷を積み左右を空にして覆い隠す工夫をし、決死隊三千を募った。張順(俗称「矮張」)と張貴(俗称「竹園張」)がともに智勇兼備で諸将に信服され、都統とされた。張順は「この行には死あるのみ。本意でない者は今すぐ去れ、私の事を敗るな」と号令し、士気を高めた。
- 漢水の増水を機に百艘で出撃、二日かけて団山下から高頭港口へ進み方陣を組み、火槍・火砲・炭火・巨斧・強弩を備えて夜半に出撃、紅灯を目印に張貴が先頭、張順が殿を務め、風波を衝いて重囲に突入、磨洪灘まで進むと北軍の舟師が江面を塞いでいたが、鉄の綱や杭を数百断ち切って転戦し百二十里を進み、夜明けに襄陽城下に達した。城中は歓喜したが、収軍時に張順だけが行方不明となった。数日後、遡流する浮屍が発見され、鎧を着け弓矢を執ったまま六槍六箭を受けて怒りの形相のまま死んでいた。諸軍は神と驚き、墓を建てて祀った。
- 張貴は襄陽に達した後、守将呂文煥に強く留められて共に守ったが、郢へ戻ろうとして水練の士二人に蝋書を持たせ援軍を求めた。北兵は水路を厳重に封鎖していたが、二人は鋸で障害物を断ち切って郢に達し、援兵五千が龍尾洲で挟撃に応じることを約させた。出撃直前、味方の一人が処罰を恐れて逃亡し計画漏洩を悟った張貴は急ぎ出撃、鼓を打ち鳴らして夜、水流に乗じ鉄鎖を断って重囲を突破した。小新城まで進むと大軍が待ち構え、荻を束ねて松明とした光が天を照らす中を進み、龍尾洲近くで見えた船団は実は北兵であった(味方の郢兵は二日前に風波に驚き三十里退いていた)。張貴軍は不意を突かれ殺傷されつくし、数十槍を受けて捕らえられ、屈せず殺された。守将呂文煥は寝返った味方の兵四人を斬り、張貴の遺体を張順の墓に合葬し、双廟を建てて祀った。