宋史卷四百四十九 列傳第二百八 李誠之

蘄州に死す

李誠之

  • 李誠之、字は茂欽。婺州東陽の人。呂祖謙に学び太学舎選首席。饒州教授、江西転運司幹弁を経て会子(紙幣)政策の強行に反対し使者を諌めた。常州通判、郢州・蘄州知事を歴任し金の盟約破棄を予見して防備を整えた。
  • 嘉定14年(1221年)金軍の淮南侵攻に際し「一死あるのみ」と将士を鼓舞し、横槎橋・沙河などで連戦連勝。金軍の攻城を幾度も撃退したが、黄州陥落後10万を超える金軍の総攻撃を受け、援軍も来ぬまま城が陥落。
  • 子の李士允が戦死、誠之自身も剣を執って自刎しようとし、妻・子婦・孫女らも投水して殉じた。朝散大夫・秘閣修撰・諡正節を贈られた。

秦鉅(附伝)

  • 秦鉅、字は子野。丞相秦檜の曾孫。蘄州通判として李誠之と共に防戦、城陥落後も巷戦し、倉庫を焼却させてから自ら火に入ろうとしたが老卒に救出され、それでも「国のために死ぬ」と衣を掴んで焼身自殺した。次子の秦浚・秦瀈も父と共に死んだ。秘閣修撰・諡義烈侯を贈られ、他の守城の将士(阮希甫・趙汝標・寧時鳳・杜諤・厳剛中・孫中・江士旺ら)も多くが戦死し褒賞された。淳祐12年(1252年)秦鉅は義烈顕節侯に改封された。同時期、黄州陥落の際には守臣何大節も投江して死んだ。