宋史卷四百四十九 列傳第二百八 許彪孫
四川各地に死す
許彪孫
- 許彪孫、顕謨閣学士許奕の子。四川制置司参謀官。景定2年(1261年)叛将劉整の降伏文書起草を拒み「この腕は断てるがこの筆は書けぬ」と一族で服毒死した。
- 同時期、都統張桂・統制金文徳は納渓で戦死、都統胡世全は虎象山で戦死、開州守龎彦海・瀘州守梅応春配下の江彦清らも各地で殉じた。
陳隆之(附伝)
- 陳隆之、四川制置使。淳祐元年(1241年)成都包囲戦で部将の裏切りにより陥落、一族数百人が死んだ。捕らえられ漢州守王夔に降伏を説くよう強要されたが「大丈夫は死あるのみ、降るな」と告げ殺された。5年後に徽猷閣待制を贈られた。
史季儉(附伝)
- 史季儉、威州棋城主簿。成都陥落時、子の史良震・婿の楊城夫が互いに死を譲り合った末に共に死んだ。