陝州に死す
- 李彦仙、字は少厳。初名は孝忠。寧州彭原の人、鞏州に移住。若くして志高く騎射に長じた。种師中の下で戦功を挙げ校尉に補せられた。靖康元年(1126年)勤王に応募し承節郎、李綱の兵法批判の上書により追捕を受け改名して逃れた。
- 河東軍から陝の裨将となり、金軍の千秋鎮敗北後、石壕尉として三觜山で堅守。民を組織し伏兵で金軍を大敗させ、諜報戦により陝州を奪還、中条山に柵を築き周辺郡邑を糾合した。
- 陝州知事兼安撫使として武節郎閤門宣賛舎人。金将烏魯薩巴の攻撃を撃退。紹興元年(1131年)金将羅索の大軍を中条山で撃破。寧州観察使兼同虢州制置。
- 張浚に援軍3000騎を要請し河東への逆襲を提案したが実現せず、羅索・折可求の10万の大軍に包囲された。楽を奏でて敵を欺き城外の攻城具を焼く戦法を用い、食糧が尽きても抵抗を続け、援軍が届かぬまま奮戦した。
- 城が陥落すると巷戦で負傷しながら戦い、河を渡って逃れようとしたが、金軍の虐殺を聞き「この城が守れなかったのは自分の責任、生きる面目がない」と投河して死んだ。享年36。張浚により彰武軍節度使を贈られ、諡忠威(後に改称)。信義に篤く士卒の信頼が厚かった。
邵雲(附伝)
- 邵雲、龍門の人。李彦仙の下で武翼郎閤門宣賛舎人まで昇進。城陥落時に捕らえられ、羅索の降伏勧誘を拒み大罵、5日間釘刑にされ磔にされても血を吐きながら罵り続けた。
呂圓登(附伝)
- 呂圓登、夏県の人。元僧侶。李彦仙軍で功が最も多く、城が破れる際に重傷を負いながら援軍に駆けつけたが、彦仙との再会を喜びつつ戦死した。
宋炎(附伝)
- 宋炎、陝県の人。弩の名手で数百人を射殺したが、城陥落時に金の誘いを拒み力戦して死んだ。