序――忠義伝を立てる由来
- 士大夫の忠義の気風は五代を経て一度は衰えたが、宋初の范質・王溥にすら遺憾があったほどである。太祖はまず韓通を褒め衞融を表彰し意向を示した。以後、真宗・仁宗の世には田錫・王禹偁・范仲淹・欧陽脩・唐介ら賢者が直言を唱え、士風は名節を尊び五代の陋習を脱した。
- 靖康の変に際し志士は袂を払って勤王し、宋の滅亡に至るまで忠節の士は各地に相次いだ。
- 三史(宋史・遼史・金史)編纂にあたり、前代の忠義の士を全て直書することとしたが、死節にも等差がある。敵に立ち向かい命を捧げた者、勝負の末に俘囚となり自裁した者、不意の乱で命を落とした者、国が滅び家が亡ぶ中で節を守った者、布衣で直言し国を思う者など、それぞれの立場に応じて記載順序を定め「忠義伝」を作った。
出自と最期
- 康保裔、河南洛陽の人。祖父の康志忠は後唐長興年間に王都討伐で戦没、父の康再遇は龍捷指揮使として太祖の李筠討伐に従い戦死した。保裔は周に仕えて戦功を重ね東班押班となり、父の戦死後にその職を継いだ。
- 石守信の澤州攻略、河東広陽攻めなどに従い千余人を得、開宝年間には石嶺関で契丹を破るなど累進し、龍衛指揮使・登州刺史・淄州団練使・定州天雄軍駐泊部署などを歴任、真宗即位後は彰国軍節度使、并代都部署となった。
- 高陽関都部署として契丹の大挙侵入を河間で迎撃。左右が甲を脱ぎ突囲を勧めたが「危難に臨んで安易に免れようとしない」と拒み、二日間力戦したのち援兵至らず戦没した。真宗は震悼し朝を廃すること二日、侍中を贈り、子の康継英以下に官を授けた。
- 継英らが「父が勝利できず死んだのに罪を問われないとは」と泣いて感謝すると、真宗は「保裔父祖ともに疆場で死し、世々忠節あり」と称えた。保裔の母(84歳)には陳国太夫人の号、妻には河東郡夫人を追贈。屢戦で身に70の傷を負っていた。
- 援軍の張凝・李重貴は保裔を救えなかったが力戦して敵を退けた。重貴は「大将が陥没したのに我らが功を論じるとは」と功を譲ろうとした。