宋史卷四百四十五 列傳第二百四 張即之

出自と生涯

  • 張即之、字は温夫。参知政事張孝伯の子。父の恩蔭で承務郎となり、進士挙で両浙転運司に及第。平江府糧料院、臨安府楼店務、龍山税、寧国府城下酒麹務などを歴任し、荊門軍・江陰軍の判官庁公事、戸部犒賞酒庫所幹当公事などを経て、揚州・鎮江・嘉興の通判、将作監簿・軍器監丞・司農寺丞を歴任。嘉興知事に任じられるも赴任前に罷免され、直秘閣を授かり致仕した。
  • 宝祐4年(1256年)、制置使余晦が入蜀の際、閬州守の王惟忠を讒言で弾劾し死に至らしめた事件に対し、張即之は在野にありながら淮東制置使賈似道に書を送りその遺孤を助け、また従孫を惟忠の孤女に娶らせた。景定元年(1260年)、中書舎人常挺の言により首級を返還し礼をもって改葬、金壇の田を戻した。
  • 書に秀で天下に聞こえ、金人もその書を珍重した。
  • 王惟忠、字は省尊、慶元鄞県の人、嘉定13年(1220年)進士。

趙蕃(附伝)

  • 趙蕃、字は昌父。先祖は鄭州の人。建炎初年、祖父趙暘が秘書少監として坑冶を提点し、信州玉山に寓居。祖父の致仕恩により州文学に補せられた。浮梁尉・連江主簿に調せられたが赴任せず、太和主簿となり楊万里に知遇を得た。
  • 辰州司理参軍となり、郡守と獄を争って罷免されたが人々はその公正さを直と認めた。劉清之に師事し、清之が衡州知事となると安仁贍軍酒庫監を求めて従学し、清之の失脚後は祠官を得て帰郷。真徳秀は国史に「蕃、師友の際、かくの如し。あに国に負くべけんや」と記した。
  • 家居し祠官の考課を31回積んだ。理宗即位後、太社令として召されるも応じず、奉議郎直秘閣に転じ、また辞して致仕した。承議郎依前直秘閣として87歳で没した。
  • 50歳になっても朱熹に学び、晩年「難斎」と名づけた居室で学問を続けた。寛平な性格で剛介、丞相周必大の推薦にも応じなかった。信州守呉旂の上奏により子が上州文学に補せられたがこれも固辞し、承務郎致仕と恩沢一子を賜った。景定3年(1262年)秘閣修撰鄭協らの請願により諡を文節とした。