宋史卷四百四十四 列傳第二百三 李廌

生涯

  • 李廌、字は方叔。もと鄆州の人で華州に移住。6歳で父を失いながら自立し、若くして学問で郷里に知られた。黄州の蘇軾に文を献じて教えを乞い、軾はその筆力を「飛沙走石の勢いあり、万人敵の才」と評した。家は貧しく祖父母以来三世未葬の状態を憂い、涙して喪の完遂を決意、軾も衣を解いて援助し、風義を勧める詩を作って支援したため、数年で三十余柩の埋葬を果たし、華山下に葬った。范鎮が墓表を作って賛えた。
  • 再び軾に会った際、「張耒・秦観の流の才」と評され、礼部試では軾自ら知貢挙となったが廌は落第、軾は詩を作って自らを責めた。呉大防は「有司の試芸がこの奇才を逃した」と嘆いた。軾は范祖禹と共に廌の登用を図ったが、両者とも相次いで朝廷を去り実現しなかった。軾の訃報に廌は慟哭し「師の恩に報いられず、死なずしてどうして師事の誠を示せようか」と述べたという。
  • 中年以降は進取の志を絶ち、潁州を隠棲の地と定め、県令李佐や郷人が宅を購ってこれに住まわせた。51歳で没した。古今の治乱を論じるのに巧みで、忠諫書・忠厚論・兵鑑二万言を献じ、羌の酋長鬼章の処刑に関して寛大な処置を求める議論が評価された。