宋史卷四百四十四 列傳第二百三 晁補之

生涯

  • 晁補之、字は無咎。済州鉅野の人。太子少傅晁迥の五世孫、宗慤の曾孫。父の端友も詩に工みであった。補之は聡敏強記で幼くして文才を発揮し、王安国に評価された。17歳で父の任地杭州で「七述」を著し通判蘇軾に謁見、軾は自分が筆を擱くべきほどの博辯雋偉な文と称賛し、これで名が知られた。進士挙で開封・礼部の別院試ともに第一、神宗はその文を「経術に深い、浮薄を改めるべき」と評し澧州司戸参軍・北京国子監教授とした。
  • 元祐初、太学正から館閣に堪えるとして召試され祕書省正字・校書郎、祕閣校理・通判揚州から著作佐郎。章惇執政期に知斉州へ出ると盗賊が跋扈していたが、補之は密かに賊の姓名と隠れ家を把握し、宴に招いた盗賊の頭目を一挙に捕らえて一府を安堵させた。『神宗実録』編修の失実により通判応天府・亳州に降格、さらに処州・信州酒税監に貶された。
  • 徽宗立の後、著作郎に復し吏部員外郎・礼部郎中兼国子編修実録検討官。党論が起こると諫官の弾劾で知河中府に出て河橋を修めて民に便し、民がその像を祠に画いたという。湖州・密州・果州の知事を経て鴻慶宮管理、帰郷して「帰来園」を築き「帰来子」と号し陶潜を慕った。大観末、党籍解除で知達州、泗州に改まり58歳で没した。
  • 才気飄逸で学に倦まず、文章は温潤典麗ながらも凌厲奇卓、楚辞に精しく屈原・宋玉以来の賦詠を集めた『変離騒』等三書を編んだ。安南出兵に際して「罪言」一篇を著し、仁厚勇略の吏を五管の郡守に選び海上諸郡の武備を整えるべきと論じ、世務に通じた見解と評された。従弟に詠之がいる。

晁詠之――付伝

  • 晁詠之、字は之道。少くして異才があり、蔭により官に補され揚州司法参軍として赴任前、蘇軾が知揚州であったとき補之がその詩文を献じ、軾は「これほどの才を今まで知らなかったとは」と感嘆し参軍の礼で謁見させ堂に招いた。進士・宏詞科に及第、河中教授。元符末、詔に応じて上書したことで罷官、後に京兆府司録事、崇福宮提点で52歳で没した。文集50巻。