出自と生い立ち
- 黄伯思、字は長睿。遠祖は光州固始から福建邵武に移った。祖の履は資政殿大学士、父の応求は饒州司録。伯思は虚弱な体つきで風韻洒落、幼くして聡敏で日に千余言を誦し、祖の講じる経史を退いて他の子どもに間違いなく話せたという。孔雀の夢を見て詞采に優れた賦を作り、祖の任官恩により承務郎に仮授された。
- 弱冠で太学に入り試芸で常に上位を占め、祖が恩により昇秩を奏請しようとしたのを固辞し、祖にも一目置かれた。元符三年、進士高等で磁州司法参軍、通州司戸、丁内艱ののち河南府戸曹参軍で治績を挙げ、留守鄧洵武の推薦で知右軍巡院となった。
学問と官歴
- 古文奇字を好み、洛陽の公卿家に伝わる商周秦漢の彝器款識を研究して字画の体制を弁正し、篆隷から古文名家として名を成した。淳化中に王著が続正した法帖の乖謬を考証し「刊誤」二巻を著した。篆隷正行草章草飛白のすべてに極めて巧みで、その尺牘を蔵する者は多かった。
- 詳定九域図志所編修官・六典検閲文字を兼ね、修書の功で朝列に昇り祕書省校書郎から祕書郎に遷った。冊府の蔵書を寝食を忘れて読み尽くし、六経・歴代史書・諸子百家・天官・地理・律暦・卜筮の説すべてに精通し、古器の考定でも議論をリードした。丁外艱で服喪中に病を得て衰弱し、服除後に旧職に復した。
- 道家を好み号を雲林子、別字を霄賓といった。京に至った際「そなたはこの世に長くない、上帝が文翰を司らせる」と告げられる夢を見て自らそれを記し、一月足らずで政和八年、40歳で没した。学問は揚雄を、詩は李白を、文は柳宗元を慕った。文集50巻、『翼騒』一巻がある。子の詔は右宣教郎荊湖南路安撫司書写機宜文字、詔(原文ママ、もう一子)は右従事郎福州懐安尉。伯思の平生の議論・題跋は『東観余論』三巻にまとめられた。