宋史卷四百四十三 列傳第二百二 楊傑

生涯

  • 楊傑、字は次公。無為の人。若くして名を知られ進士に及第、元豊中に太常の官として礼楽の議論に加わった。玉牒の帝系が僖祖以前は不明であるとして僖祖を始祖とし感生帝に配すべきこと、孝惠賀后・淑徳尹后・章懐潘后らを祖宗の首納の后として、また天下の母儀たる孝章宋后についても長らく講じられなかった升祔の礼を慈聖光献の崇配の際に併せて行うべきことを建言、これにより四后が祖宗廟室に祔られた。
  • 神宗が祕書監劉几・礼部侍郎范鎮に楽の議定を命じた際、傑も同議となり大楽の七つの誤りを図に上した。鎮の楽制は不用に終わり、傑自らの制した楽が褒賞された。晉州教授陸長愈が孟軻を鄒国公に封じ顔子と並べて釈奠に配すべきと言上した際、傑は少卿葉均・博士盛陶・王吉・辛公佐とともに「配享・従祀は孔子と同時代の者に限る」として反対したが、礼部は「伏勝・高堂生ら21賢の先例に照らせば同時代でなくともよい」と反論し、詔はこの礼部の議に従った。
  • 哲宗即位後、楽議が再び范鎮説に拠った際も傑は破鎮論を展開、鎮の楽章の宮架・磬の増加を批判、また黒黍と秠を混同して律を制した誤りや太府尺を用いた誤りを論じ、旧楽三律を退けた。元祐中、礼部員外郎から潤州に出て両浙提点刑獄、70歳で没した。「無為子」と号し文集20余巻、『楽記』5巻がある。