生涯
- 文同、字は与可。梓州梓潼の人。漢の文翁の後裔で、蜀人は今もその一族を「石室」と呼んだ。方口秀眉で学問で世に知られ、号は笑笑先生。詩文・篆隷行草・飛白に優れ、文彦博が知成都でその才を評し「与可の襟韻は晴雲秋月の如く塵埃に染まらぬ」と書を送った。司馬光・蘇軾も特に敬重し、軾は同の従表弟にあたる。
- 竹の画に優れ、初めは自らの作を軽視し、四方の人が絹を持って求めに来るのを厭って地に投げ「これで襪を作ろう」と罵ったが、それがかえって話の種として伝わった。進士に及第し太常博士・集賢校理・知陵州・知洋州を歴任。元豊初、知湖州、翌年知陳州の途上、宛丘駅で急に留まり沐浴衣冠を正して端座したまま没した。
- 崔公度と親しく、館職時代に会って言葉少なだったが「明日また来て話(畫)そうか」と告げられた際、崔は「畫」を絵の意味と誤解したが、実は左右を憚っての「話」であったという逸話がある。同はまた「人が妄語をしなければ舌が鼻に届く」と語って自らの舌を三つ折りにして見せたといい、後に崔が京で同の訃報を伝え聞いた際、あの時見たのは生者ではなかったと悟ったという。『丹淵集』40巻が世に伝わる。