生涯
- 蘇洵、字は明允。眉州眉山の人。27歳で発憤して学問を始め、進士・茂才異等ともに落第、それまでの文を全て焼いて読書に専念、六経百家に通じ、たちどころに数千言を書けるようになった。至和・嘉祐年間、二子の軾・轍とともに京師に至り、翰林学士欧陽脩がその著書22篇を朝廷に献じ、士大夫が争って伝え、蘇氏の文体を学者が競って模倣した。
- 著書『権書』『衡論』『機策』は多く記録に残っていないが、「心術」「逺慮」二篇は伝わる。「心術」の要旨は、将たる者は事に動じぬ心を養うべきこと、義に基づく怒りが将兵を強くすること、財・力・気・心の四つをそれぞれ節度をもって養うべきこと、士を愚にして統率しやすくすること、敵の主将を知り機に応じて動くこと、長短の技を使い分けて敵を欺くこと、備えある者は死を恐れないこと等を論じる。
- 「逺慮」の要旨は、聖人の道には経(民が知る道理)・権(臣下が知る計略)・機(腹心の臣のみが知る密謀)の三段階があり、腹心の臣を欠いてはならないこと、禹の益、湯の伊尹、武王の太公望、桓公の管仲、劉邦の張良・蕭何、唐太宗の房玄齢・杜如晦などの例を引き、創業のみならず守成の世にも腹心の臣が不可欠であること、天子と宰相の心が通じなければ社稷の危機に対処できないことを説く。
- 宰相韓琦がこの著書を評価し朝廷に奏し、召試されたが病を理由に辞退し祕書省校書郎となった。太常が建隆以来の礼書を編纂する際、霸州文安県主簿として陳州項城令姚闢とともに編纂にあたり、『太常因革礼』百巻を完成させたが、奏上前に没した。家に絹二百疋が賜られたが、子の軾はこれを辞退して贈官を求め、光禄寺丞を特贈された。有司が船を用意して柩を蜀に運んだ。文集20巻、『諡法』三巻がある。