宋史卷四百四十二 列傳第二百一 尹源

生涯

  • 尹源、字は子漸。博学強記で弟の洙とともに文学で名を知られたが、洙が議論明弁で果断であるのに対し、源は自らを晦まし、発言すれば人を超える見識を示した。祖の蔭で三班借職から進士に及第、奉礼郎から太常博士、知芮城・河陽・新鄭三県、通判涇州の際、知滄州劉渙が部卒を専断で斬った罪で降知密州となったのに対し、源は「渙は正当な処罰であり、これで渙を咎めれば辺兵が主将を軽んじる」と上書し、渙は罪を免れた。
  • 「唐説」「敘兵十篇」を著した。「唐説」は、唐の衰退が諸侯の強大化そのものではなく、河北の順逆にあったとする論(河北が服従すれば天下の乱は続かず、河北が乱れれば姦雄が付け入る、憲宗・武宗の成功と失敗を諸例に引きつつ、梁の朱全忠の簒奪も河北の弱体化ゆえと説く)。「敘兵十篇」は、唐末の杜牧の兵論を引き、唐は諸侯の自募兵で外征に成功したが、宋は禁軍を京師に集中させ辺境の兵が薄く将の権限が限られていることの弊を論じ、外兵の増強と辺将への権限委譲を提言する(要旨のみ)。
  • 元昊が定川堡を寇した際、葛懐敏が涇原兵を発して救援しようとしたが、源は「賊の狙いは城堡ではない、瓦亭に駐屯して機を待つべき」と書を送ったが聴かれず懐敏は敗れた。范仲淹・韓琦の推薦で学士院に召試されたが、源が賦より論を好んだため試官に嫌われ下位に置かれ、知懐州で没した。