宋史卷四百四十二 列傳第二百一 石延年

生涯

  • 石延年、字は曼卿。先祖は幽州の人であったが、後晋が幽州を契丹に割譲した際、祖は南走して宋城に居を移した。跌宕として気節を任じ、書を読んで大要に通じ、文は勁健、詩に最も巧みで書もよくした。三度の進士挙に落第するも真宗は三挙の実績を認め三班奉職としたが延年は就任を恥じた。張知白がその才を評し「母が老いているのに官職を選ぶのか」と諭され、やむなく命に従った。
  • 右班殿直・太常寺太祝・知金鄉県を経て通判乾寧軍、永静軍、大理評事館閣校勘、光禄大理寺丞。章献太后への還政を上書し、太后崩御後、范諷が延年を引き立てようとしたのを延年自ら止めた。後に諷が失脚した際、延年は諷との親交を理由に落職し通判海州、まもなく祕閣校理、太子中允・同判登聞鼓院に遷った。
  • かねて「天下は30余年戦を知らない」として二辺の備えを上書したが取り上げられなかったが、元昊の反乱で意見が用いられ、河東での郷兵徴募を任され十数万を得た。辺将が実戦投入を望むと「これでは寄せ集めに過ぎない、未教練の兵は勇怯が混在し危うい、募った勇敢な者だけを鍛えればよい」と論じ、また唃厮囉・回鶻に元昊を攻めさせることを提言し帝に採用された。
  • 酒を好み劉潜と酒楼で終日無言のまま飲み続けた逸話があり、非凡な人物と評判になった。酣放な風であったが世務の議論には的確であった。天章閣待制呉遵路と河東に使いした際に没し、遵路の言上で子一人が官を授かった。

劉潛――付伝

  • 劉潜、字は仲方。曹州定陶の人。少くして卓逸で大志があり古文を好んだ。進士出身で淄州軍事推官、知蓬萊県を経て鄆州に戻る途中、曼卿と飲んでいる最中に母の急病を知り急ぎ帰ったが母は死し、潜は慟哭して絶命、妻もこれを追って死んだ。世人は「子は孝に死し妻は義に死す」と評した。同時期に文名を並べた者に歴城の李冠がおり、進士不第ながら同三礼出身を得て乾寧主簿となり、『東皐集』二十巻を残した。