宋史卷四百四十一 列傳第二百 李建中

生涯

  • 李建中、字は得中。先祖は京兆の人。曽祖の逢は唐左衛兵曹参軍、祖の稠は梁の商州刺史。蜀に入り王建に仕えて左衛将軍となった。建中は幼くして学を好み、14歳で父を喪い、蜀平定後は母と洛陽で聚学して自活、王祐の推挙で石熙載の第に寓居し厚遇された。
  • 太平興国八年進士甲科、大理評事知岳州録事参軍。転運使李惟清の推薦で著作佐郎、監潭州茶場、殿中丞、通判道州・郢州を歴任、柴成務の推薦で太常博士。時政の利害を論じる表を奉り太宗に評価され緋魚を賜った。公累の罰金が漏れた件で殿中丞に降格、監在京榷易務。蘇易簡が太宗に蜀の文士として建中を語り、太宗は直昭文館を命じたが、父の名が「昭文」であったため辞退し集賢院に改まった。
  • 両浙転運副使、主客員外郎、通判河南府、知曹州・解州・穎州・葵州を歴任。景徳中、金部員外郎。性格は簡静で風采に優れ、洛中の風土を愛し、園池を築いて「靜居」と号し、山水に遊んでは題を留めた。自ら巌夫民伯と称し、司封員外郎・工部郎中に至った。
  • 修養の術に長け、道蔵の校定に加わり太府寺を判じた。大中祥符五年冬、泗州に汴水発願文の醮を行う使者として赴いた帰路に病を得て翌年69歳で没した。書札に巧みで、草隷篆籕八分いずれも新体を創り多くの人が手本とした。郭忠恕の『汗簡集』(科斗文字)を写して献じ嘉賞を受けた。古器名画の収集を好み、文集30巻を残した。子の周道・周士はともに進士、周士は侍御史・江東陝西転運・三司塩鉄判官を経て工部郎中で終わり、周民は太子中舎。