宋史卷四百四十一 列傳第二百 刁衎

生涯

  • 刁衎、字は元賓。昇州の人。父の彦能は南唐に仕え昭武軍節度使。衎は蔭で祕書郎集賢校理となり文翰で李煜に近侍し、清輝殿で章奏の閲覧を任された。金陵平定後、帰宋し緋魚を賜り太常寺太祝、称病で数年隠棲。
  • 太平興国初、李昉に出仕を勧められ「聖徳頌」を撰して献じ、本官に復し知桐廬県。詔に応じて刑罰の濫用や酷法の禁止、囚人の護送体制の見直し、御前での決罰の廃止、酷刑の減軽などを上諫(要旨のみ記す)。大理寺丞に遷り献文40篇、殿中丞に召試。
  • 通判湖州で酒税額の統一・城隍条約・両浙丁身銭の除去・汴水の遺体処理の禁止など五事を上疏、知婺州、国子博士。百官の考課で光州知事に配され虞部員外郎、転運使の高評価で知廬州、真宗即位後比部員外郎。天下と帝王のあり方を論じる長い上疏を奉った(要旨:君民の善悪の応報、太祖太宗の勤倹への継承等)。
  • 『本説』十巻を献じ祕閣校理、知潁州、比部員外郎、直祕閣崇文院検討。杜鎬・陳彭年と並ぶ検討官のうちこの二人に専任を勧めて自ら他職を求め、知湖州、刑部郎中。『冊府元亀』編修に加わり大中祥符六年完成、兵部郎中に至り入朝の際に中風で倒れ69歳で没した。
  • 南唐時代は権勢盛んで奢侈な生活を送ったが、帰宋後は純澹夷雅で知られ、談笑や囲碁を好み士大夫に重んじられた。子の湛・湜・渭はいずれも進士、湛は刑部郎中、湜は屯田員外郎、渭は太常博士。湛の子の繹・約も天聖中に進士に及第した。