宋史卷四百四十一 列傳第二百 黄夷簡

生涯

  • 黄夷簡、字は明挙。福州の人。父の延枢は王審知に仕え、王延鈞の娘を娶ったが、後に銭氏に取られ光禄卿となった。夷簡は幼くして孤児となり学を好み江東で名を得、銭惟治の明州判官を務め、太平興国初、銭俶に従って来朝し検校祕書少監元帥府掌書記となった。
  • 俶が元帥の位を譲るとその子に付いて淮海国王府判官、俶が許王に改封され南陽に鎮する際は倉部員外郎許王府判官。俶の没後、帰朝して考功員外郎から都官郎中に転じ、至道二年、浙右出身者に館閣職がないことを訴え、かつて自ら俶に入朝を勧めたことを述べて太宗に憐れまれ、直祕閣・吏部南曹判官となった。
  • 咸平中、翰林に召試されて光禄少卿。宰相張斉賢が夷簡と曾致堯をともに知制誥に引こうとしたが急な制書で夷簡だけが草詔にあたり、物議により昇進のみに留まった。景徳中、病により職籍を除かれかけたが、真宗は呉越の旧臣として月俸を続けさせた。大中祥符初、祕書少監に遷り、三年に母を喪って護喪を許され、検校祕書監平江軍節度副使を授かり、翌年77歳で没した。
  • 談論と詩文を好み、老いてもなお詩作を続けた。かつて許国長公主の葬礼を護衛した際、駙馬都尉魏咸信の礼遇が薄いことを恨み、送別の銭を寄贈した咸信を誹謗する歌詩を作って怨嗟をあらわにし、真宗に鄙しめられ、中書に召されてその詩を焼かれた。士大夫はこの一件で人柄を軽んじた。

盧稹――謝炎・許洞

  • 浙右の秀才として盧稹・謝炎・許洞がいる。
  • 盧稹、字は淑微。杭州の人。7歳で詩を作り、12歳で文を学び、五経の大義に通じ『周易』『孟子』を好んだ。端拱初、都に遊学し徐鉉にその才を認められ、その年に進士に及第。真定束鹿主簿に補されたが赴任前に契丹の包囲により卒、27歳。「五帝皇極志」「孺子問」「翼聖書」数十篇を著した。
  • 謝炎、字は化南。蘇州嘉興の人。父の崇礼は泰寧軍掌書記。韓愈・柳宗元を慕う文で盧稹と並び「盧謝」と称された。稹の温厚に対し炎は激烈で、互いに親交が深かった。端拱初に進士、昭応主簿・伊闕・華容・公安の県令を歴任、34歳で没した。文集20巻。
  • 許洞、字は洞天。蘇州呉県の人。父の仲容は太子洗馬致仕。幼くして弓矢・撃刺の技を習い、成長後は学問に励み『左氏伝』に精しかった。咸平三年進士、雄武軍推官。府に赴いた際、無礼な兵卒を杖責して馬知節と対立、その後公銭の不正使用で除名され呉中に帰り、酒に耽った逸話がある。景徳二年、著した『虎鈴経』二十巻により応試韜略運籌決勝科に応じたが処罰され、均州参軍に補された。大中祥符四年、汾陰祭祀に際し「三盛礼賦」を献じて召試され、烏江県主簿に改まり42歳で没した。文集百巻、『春秋釈幽』五巻、『演玄』十巻を著した。