生涯
- 陳充、字は若虚。益州成都の人。家は豪盛であったが仕官を好まず、郷人に強く勧められて科挙に赴き、雍熙中に天府・礼部の奏名でともに首位、廷試で甲科に及第。孟州観察推官から掌書記に転じ、寇凖の推薦で殿中丞に召試された。
- 知明州、太常博士、直昭文館、工部・刑部員外郎を歴任。久しく病んで籍を除かれたが、真宗はその貧病を憐れみ致仕させ半俸を給し、快復後は本官のまま職に留めた。景徳中、趙安仁とともに知貢挙、工部・刑部郎中に改まった。大中祥符六年、足疾により西京留守御史台の分司となり、70歳で没した。
- 詞学に優れ、唐の牛僧孺が「善悪無余論」で堯舜の善・伯鯀の悪がいずれも子孫に及ばないと述べたことに反論する論を作った。曠達な性格で談笑を好み、栄利に淡白で号を中庸子といった。晩年まで詞職に就けなかったが、自ら墓誌を作り、文集20巻を残した。
吳淑――生涯
- 呉淑、字は正儀。潤州丹陽の人。父の文正は呉に仕えて太子中允、学を好み多くの書を自ら書写した。淑は幼くして俊爽で文章に敏速、韓熙載・潘佑に才を高く評価され、以後難解な文辞を作る際には必ず淑に依頼された。校書郎直内史として江南平定後に帰宋したが久しく調官されず窮乏した。
- 近臣の推薦で学士院に試され大理評事となり、『太平御覧』『太平広記』『文苑英華』の編修に参画。太府寺丞・著作佐郎を経て祕閣設置とともに校理となった。「九絃琴」「五絃阮頌」を献じ、また「事類賦」百篇を作って詔により自ら注釈し30巻に分注して献上、水部員外郎に遷った。
- 至道二年、起居舎人事を兼ね『太宗実録』の編修に参加、職方員外郎に遷り、地図行政について「州郡地理は互いに接するもの、諸路転運使に十年ごとに図を作らせ職方に納めるべき」と提言、採用された。禦戎策を求められた際には古の車戦法の採用を上疏した。咸平五年、56歳で没した。
- 純朴で古学を好み詞学典雅。かつて建業籠城の際、同宗の家が全滅する中で孤児二女を養育した義行が称えられた。文集10巻。篆籕を好み『説文』の字義を千八百余条選び「説文五義」三巻を撰し、『江淮異人録』三巻・『祕閣間談』五巻を著した。子の安節・讓夷・遵路はいずれも進士に及第、遵路は祠部員外郎祕閣校理に至った。
舒雅――付伝
- 舒雅、字は子正。久しく李氏(南唐)に仕え、江左平定後は将作監丞、のち祕閣校理。呉淑と並び称され、職方員外郎に遷り知舒州となる際に金紫を賜った。潜山の霊仙観の道教勝地で任期満了後も掌観事を望み、東封に際し主客郎中を加え直昭文館、刑部に転じても観に在り続け、山水に遊んで晩年を楽しんだ。70余歳で没した。弟の雄は端拱二年の進士。