思想の萌芽と学風
- 字は子静、3、4歳のとき天地の窮際を父に問い、答えを得られず深く思索した。総角の頃から挙止が凡児と異なり、伊川(程頤)の語を聞いて「我を傷つけるものがある」と感じ、伊川の言が孔子・孟子の言と類さない箇所が多いと批判した。論語の有子の言を「支離」と疑い、「宇宙」の字義を読んで「宇宙内の事は乃ち己が分内の事、己が分内の事は乃ち宇宙内の事」と大悟した。「東海に聖人出づるも此の心此の理は同じ、千百世の上下にも変わらない」と語った。
- 乾道8年進士第、行在に赴くと士が争って従学し、教えを聞いて感発する者が多かった。学規を用いず、小過にはその情を的確に言い当てて相手を流汗させ、心中にありながら自覚できぬことは条理を分けて指摘した。念慮の正邪は頃刻に知り得るとし、形迹だけで人を観たり縛ったりすることの限界を説いた。
出処と荊門軍の善政
- 隆興靖安県主簿、母の喪、建寧崇安県。少師史浩の推薦で召されたが応じず、侍従の推薦で国子正となり、教える生徒は在家の時と変わらなかった。敕令所刪定官。靖康の恥への義憤から知勇の士と恢復の大略を議論し、輪対で五論(讎恥回復のための人材登用、尊徳楽道の誠、知人の難しさ、事は馴致すべきで急ぐべきでないこと、人主は細事に関わるべきでないこと)を陳べ帝に称善された。将作監丞、給事中王信の駁で崇道観提挙に転じ帰郷、学者が輻湊し講席は戸外まで満ち、耆老も杖にすがって聴講、「象山先生」と号された。「汝の耳は自ずから聡く目は自ずから明るい、父に孝、兄に弟なのは本来欠けたものではなく自立すれば足りる」と説き、「六経註我、我註六経」とも語った。
- 光宗即位、知荆門軍。訴えは早暮を問わず庭で受理し、自ら状を持たせて再来の期を約し多くを情理で解決、人倫に渉る訴えは自ら状を毀させて風俗を厚くし、訓すに堪えぬ者だけを法に処した。子殺害の訴えを追究して子の無事を確認した逸話、窃盗の訴えで犯人を特定し盗品を還して罪を宥し自新させた逸話、暴行事件を推理で言い当てた逸話などが伝わり「郡以為神」と称された。保伍法を厳格に施行して盗賊を一掃した。荆門は辺境の要衝ながら城壁がなかったため、江漢の間の四方を結ぶ要地であることを説いて朝廷に城壁建設を請い実現させ、民の辺境不安を除いた。関市の吏の讥察を廃して民税を減らし商賈を集めて税収を増加させ、旧来の銅銭を鉄銭に換える際の追加納付も免除した。教軍の賞を郡民にも均霑させ、属官の推薦に流品を限らない方針を取った。旱魃には祈禱で必ず雨が降ったとされ、政績は諸司から交々推薦され、丞相周必大も荊門の政を称賛した。死を予感する言葉を家人や僚属に告げ、雪乞いの祈禱の翌日に沐浴更衣し端坐、2日後の日中に卒した。会葬者は千を数え、諡文安。
朱熹との論争と門人
- かつて朱熹と鵝湖の会で学の異同を論じたが多くは合わなかった。熹が南康の知事となった際、九淵が訪ねて白鹿洞で「君子小人喩義利」の一章を講じると、聴く者の中に涙する者もあり、熹は「学者の隠微な病を切中する」と評した。しかし「無極而太極」をめぐる論争は書簡の往来を重ねても決着しなかった。門人の楊簡・袁燮・舒璘・沈煥がその学を伝えたという。