出自と学風(弟九韶付)
- 字は子壽、8世祖の希聲は唐昭宗の相を務め、孫の徳の代に五代末の乱を避けて撫州金渓に移った。父の賀は学行で郷里に尊ばれ、司馬氏の冠昏喪祭儀を家に採用した。6子のうち5番目が九齡で、幼くして穎悟端重、10歳で母を喪い成人のように哀毀した。郡学弟子員となり、秦檜当国のもと程氏の学が「無道」とされる中で独り程氏の説を尊んだ。新任の博士が黄老を学び礼法を軽んじたことに憤慨し家に戻って講学に励んだ。
- 中朝の名士許忻に見出されて当代の文献を伝授され、以後大いに力を注いで諸子百家を渉猟し、陰陽・星暦・五行・卜筮の説にも通じた。汪応辰の推薦で学録、乾道5年進士第、桂陽軍教授(親の老いを理由に辞退)、興国軍。赴任前、湖南の茶寇が廬陵を脅かした際、旧来の義社を主宰することとなり、門人の不満に「文事と武備は一つ」と説いて調度屯禦を整え寇を防いだ。興国軍着任後も厳しい規矩で士類を興起させた。継母の喪、全州教授(未赴任)、疾を得て49歳で卒した。宝慶2年、贈朝奉郎直秘閣、諡文達。父の志を継いで礼学を修め、闔門百口が班をなして各職を供し、閨門は朝廷のように厳しく忠敬楽易で郷人を教化した。弟の九淵と「二陸」と称され師友の関係にあり、張栻・呂祖謙とも交わった。
弟九韶
- 九韶、字は子美。学は淵粋で山中に隠居し、昼の言行を必ず夜に記した。一族累世義居し家長が最年長者として統括、田畑租税・出納庖厨・賓客の事にそれぞれ主者を置き、訓戒の辞を韻語にして朝の家廟参拝の後に太鼓を打って子弟に読誦させた。過ちがあれば家長が責め訓し、改まらなければ撻ち、それでも改まらなければ官府に訴え遠方に屏した。著書に『梭山文集』『家制』『州郡図』がある。