初任と孝宗への諫言
- 字は泰之、徽州休寧の人。10歳で文を能くし、紹興21年進士第、呉県簿(未赴任)、父の喪、『十論』を著して献上し宰相湯思退に評価され太平州教授、太学正・館職試を経て秘書省正字。孝宗即位後、著作郎。漢の石顕の矯詔の故事を引き、御前直降文書は必ず三省を経るべきと上奏。完顔亮侵冦時に功のあった李寶・虞允文の処遇が不公平であることを論じた。
- 恭王府賛読、国子司業兼権礼部侍郎直学士院。「治道が進まないのはなぜか」との孝宗の問いに「賢を求め諫を納れ政事を修めれば足り、他に奇策を求める必要はない」と答え、淮上の築城が過剰であり練兵と択将こそ要と説いた。浙東提点刑獄では豊作時の酒税増額要求を「大昌は罪を得ても増税は行わない」と拒否した。
地方官と晩年
- 江西転運副使、飢饉の年に銭十余万緡を出して吉州・贛州・臨江・南安の夏税折帛を代納し、清江県の破坑桐二堰の復旧を成し遂げた。秘閣修撰、秘書少監。六和塔寺僧が鎮潮の功を理由に免税田を求めた際、法に反すると奏して却下した。権刑部侍郎・侍講兼国子祭酒、貸死の法は有司が守り人主が可否を察するのが道理であると論じた。給事中、江陵都統制の部下逄原が百姓を殴った事件を辛棄疾の報告を受けて弾劾し降格させた。権吏部尚書、禁衛の士を軽々しく外任させるべきでないと建言。
- 知泉州・汀州で賊沈師の乱討伐に際し裴師武を督励し撃退させた。知建寧府、光宗嗣位で知明州、紹熙5年致仕、慶元元年卒、73歳、諡文簡。篤学で古今の事に考究し、『禹貢論』『易原』『雍録』『易老通言』『攷古編』『演繁露』『北辺備対』を著した。