出自と学官
- 字は守道、兗州奉符の人。進士及第、鄆州南京推官。学に篤く志尚があり善を楽しみ悪を疾み、事に臨んで敢然と動いた。御史台に主簿として招かれたが赴任前に赦書の内容が不当と論じて罷免され、鎮南掌書記、父の代役として嘉州軍事判官。父母の喪に服し、徂徠山下で耕作しつつ五世の未葬の骸70を葬った。家で教授し「徂徠先生」と号され、学者が多く従い太学もこれにより益々盛んになった。
- 文には気迫があり、仏老の弊を憂い『怪説』『中国論』を著してこの二者を去るべきと論じ、『唐鑑』を著して姦臣・宦官・宮女の害を戒めた。杜衍・韓琦の推薦で太子中允直集賢院。
慶暦聖徳詩と没後の讒言
- 呂夷簡が罷相し夏竦が樞密使に就くもすぐに解任され杜衍が代わり、章得象・晏殊・賈昌朝・范仲淹・富弼・韓琦が同時に執政、欧陽修・余靖・王素・蔡襄が諫官となった慶暦の盛時を石介は喜び、「慶暦聖徳詩」を作って各執政の功績を称え、大姦(夏竦を指す)を斥けたことを詠んだ。詩が世に出ると、孫復は「子の禍いはここに始まるだろう」と警告した。
- 石介は馬を持たず、借りて大臣の門を出入りしたため人に指目され、通判濮州を求めて赴任前に卒した。折しも孔直温の謀反事件の家宅捜索で石介の書簡が見つかり、石介を憎む夏竦がこれに乗じ、石介は偽死して契丹に逃げたと讒言し棺を開けて検めることを求めた。詔で京東に存否を調べさせ、当時兗州にいた杜衍は返答に窮したが、掌書記の龔鼎臣が一族を挙げて石介の死を保証し、提点刑獄呂居簡も反対して「発棺すれば国家に故なく人の墓を暴くことになる」と述べ、数百人が保証書に署名して発棺は免れた。子弟は一時他州に羈管されたが後に帰還を許された。家は貧しく妻子が凍え飢えかけたが富弼・韓琦が奉禄を分けて田を買い扶養した。『徂徠集』が世に行われる。