経界法に精通した元徳先生
- 張洽、字は元徳、臨江の清江の人。父の緩は進士に及第した。洽は少くして頴異、朱熹に学び六経の伝註以下皆その指帰を究め、諸史百家、山経地志、老子浮屠の説に至るまで読まないものはなかった。かつて管子のいわゆる「これを思いこれを思い、また重ねてこれを思う、思って通じなければ鬼神まさにこれに通ずるだろう」の語を取って窮理の要とした。熹はその篤志を嘉し黄榦に「この道の伝を求めるに望むべき者は二、三君のような人は多くない」と言った。当時、社倉法が行われると洽は県に常平米二百石を貸すことを請い倉を里中に建て六年でその本を官に帰したので郷人はこれを利した。嘉定元年、及第して松滋尉を授かった。湖石の経界が正しくなく弊は日に甚だしかったので洽は推排法を行うことを請い令を洽に委ねられた。洽は乃ち民に自ら土地疆界産業の数を実らせ匱に投じさせ籌覈して次第し吏姦を匿すところがないようにし、その後十餘年、訟える者はなお洽の法を援いて証としたという。袁州司理参軍に改まり、大囚を訊すと服したがまもなく復た変異しかも力能く動揺して官吏は累年決することができず逮繋される者は甚だ多かったが、洽は提点刑獄にこれを白してこれを殺した。ある盗の甚だ狡黠な者がいて辞を折ることができなかったが、たまたま兄弟が財を争う獄があり、洽はこれを諭して「官に訟えるのはただ胥吏の地となるばかりで法を冐して勝つことを求めるのは、どうして各々分を守って手足の愛を全うするのに及ぶだろうか」と言うと、辞気は懇切で訟える者は感悟し、盗はこれを聞いて自ら伏した。民に人を殺しその子を賄って焼いた者がいて数年後に事が発覚したが、洽がその獄を治めても無状で憂え郡に白して官に体訪を委ねると、俄かに人が庭に拝んで傷痕を脅に示す夢を見た。翌日、委官がその事を上げると果たしてその通りだった。郡守は倉廩が虚しいことをもって倉吏二十餘家を籍せんとして洽にこれを鞫させたが、洽は廉によってこれが都吏に売られたものと知った。都吏は州の巨蠧で、かつて倉に干渉して得られなかったのでこれをもってこれを中傷したもので、洽は守の意が鋭くまだ嬰るべきでないと度り、しばらくこれを繫いで密かに倉庾の入るところを計算させ守に「君の籍する二十餘家は胥吏によるものです。今、数歳の中に入るところを校べればすでに昔より豊かです、これによって観れば胥吏の妄言です。君は必ず胥吏の妄言を受けて無罪の家を籍することに忍びないでしょう、もし胥吏を罪すれば過ちは乃ち免れましょう」と言うと守は悟って都吏を罷め籍された家を免じた。永新県を知るとき、ある日、告を謁して獄中で榜笞の声を聞いたのは獄吏が財を受け訊囚に乗じて誣服させていたので、洽は大いに怒り亟ぎこれを捕え獄に付し翌日郡に上ってこれを黥した。湖南の寇が乱を作すと県に接壤していて民は大いに恐れたが洽は単車で行き邑佐や寓士は交々諌めても聴かず、至ると寇は未だ来ておらず乃ち隅宮に延見して利害を訪ねてこれを犒い、これによって安福の境上を行き土豪と結約してその歓心を得た。まもなく南安の舒寇が境を犯そうとしたが備えがあると聞いて去った。江東提挙常平が推薦して池州の通判に。獄に張徳修という者がいて誤って人を蹴って死なせたが獄吏はこれを故殺として誣告し、洽は訊してこれを疑い再鞫を請うたが守は聴かなかった。たまたま提点常平の袁甫が至り時にちょうど大旱で禱っても応じなかったので、洽は甫に「漢晋以来、濫刑して旱を致し寃を仲すれば雨が得られたことが方冊に載っています、考えられます。今、天が大旱するのはどうして徳修の事によらないと知りましょうか」と言うと、甫はこれのため獄の欵状を閲し徳修は遂に徒罪に従った。復た郡に白して征税を蠲し催科を寛くして和気を召すことを請うと守はこれのため税を寛くすること三日にして果たして大雨があり民は甚だ悦んだ。洽は度々病により祠を請い、これに至って建昌仙都観を主管とし慶壽の恩で緋衣銀魚を賜った。時に袁甫は江東刑獄を提点し白鹿書院の廃弛をもって洽を長とせんとすると、洽は「ああ、これは先師の跡である、どうして辞せようか」と言った。至ると好学の士を選び日々講説してその教えに率わない者を汰ろえ、凡そ士を養う田で豪右に乾没されていたものはこれを復した。学が興ると病を謝して去った。端平初め大臣は多く洽を薦め都堂の審察に召されたが洽は疾により赴かず、秘書郎に除されまもなく著作佐郎に遷った。度正・葉味道が経幄にあるとき帝はしばしば「張洽はいつ来られるか」と問い、説書をもって洽を待つことにしたが洽は固く辞し、遂に直秘閣主管建康崇禧観に除された。嘉熙元年、疾により致仕を乞い十月に卒す、年七十七。洽は少時より力を敬に用い、ゆえに「主一」をもって斎に名づけた。平居は常人と異ならないが義の当に為すべきに至れば勇にして奪うべからず、閒居しては朝廷の事を言わず、あるいは災異変故によれば顰蹙して楽しまず、一君子が進用され士大夫が朝廷の得失を直言するのを聞けばすなわち色に喜びを見せた。交わるところは皆名士で呂祖倹・黄榦・趙崇憲・蔡淵・呉必大・輔広・李道傳・李燔・葉味道・李閎祖・李方子・柴中行・真徳秀・魏了翁・李□(底本欠字)・趙汝譡・陳貴誼・杜孝厳・度正・張嗣古は皆これを敬慕した。卒した翌日、旨があって直宝章閣を除された。著した書に「春秋集註」「春秋集伝」「左氏蒙求」「続通鑑長編事略」「歴代郡県地理沿革表」「文集」がある。子の㯝(木偏に呈)は檉に同進士出身を賜った。