法を曲げず刑を軽くした獄官
- 韓晉卿、字は伯修、密州安丘の人。童子のとき日に書数千言を誦し、長じて五経で中第、肥郷・嘉興の主簿、安粛軍司法参軍、平城令、大理詳断審刑詳議官、応天府の通判、同州・寿州の知事を歴任し課を奏して第一となり、刑部郎中に抜擢された。元祐初め明州を知り両浙転運使となる。差役法が復活し諸道の処置は多く倉卒で叙を失ったが、晋卿だけは民の宜しきを視て法に戻らなかった。入って大理少卿に指され卿に遷り、晋卿は仁宗朝から既に訟臬を典り、朝廷に疑議があれば裁下して公卿に雑議させることが多かった。開封の民が鶉を争って人を殺した事件で、王安石は「これは盗が捕えられるのを拒み鬭って死んだものであり、殺したのに罪はない」としたが、晋卿は「これは鬭殺である」と言った。登州の婦人が夫を謀殺した事件では郡守の許遵が按問を執行し、安石が再びこれを主張したが、晋卿は「死に当たる」と言い、事は久しく決せず庭に議論が満ちたが、なお持して変わらず、これによって名を知られた。元豊、大理獄を置き多く内庭からの付があったが、晋卿は持平に考核し上下におもねるところがなく、神宗はその才を称した。獄を讞するたびに、事が貴要に連なり屡々鞫しても成らぬものは必ず晋卿に委ねられた。かつて詔を受けて寧州の獄を按治したとき、故事では入対に及ぶべきところ、晋卿は「使命を奉じる者には指すところ三尺の法があるのだから、どうして候主の意の軽重を刺察すべきだろうか」と言い、命を受けるとすぐ行った。諸州が大辟の讞を請うと執政はその多いことを悪んで讞しない者を弾劾しようとしたが、晋卿は「聴断して生かす方法を求めるのが仁恩の至りである。もし讞して譴を得れば後に讞に来なくなろう」と言った。議者はまた唐の覆奏を引いて天下の庶戮に悉く奏決させようとしたが、晋卿は「疑わしく矜むべきものは上請を許すのが祖宗の制である。四海万里からいちいち縛して朝命を聴かせては、今より瘐死する者が伏辜する者より多くなろう」と言い、朝廷は皆その説を行った。それゆえ士大夫の間ではその忠厚を推し法家として名指すことはなかった。官にて卒した。