宋史卷四百二十六 列傳第一百八十五 髙賦

流民を招いて田を拓いた吏

  • 高賦、字は正臣、中山の人。父の任により右班殿直となり、また進士に挙げられ奉礼郎に改まり太常博士に四遷、真定県を知り、剣・邢・石州、成徳軍の通判を歴任、衢州を知る。俗は巫鬼を尚び、毛氏・柴氏ら二十餘家が代々蠱毒を蓄え、閏歳になると害人が特に多く、人と忿争すればすぐに毒を用いた。賦は悉く擒えて治め罪に服させると蠱患は遂に絶えた。唐州に転じたとき、州田は百年を経て荒れ耕されず、前の知事趙尚寛が力を尽くして開墾しても榛莽の地はなお多かった。賦はその後を継ぎ益々両河の流民を募り口数に計って田を給し耕させ、陂堰四十四を修め、再任二期のあいだに、去るときには田は三万一千三百餘頃を増し、戸は一万一千三百八十を増し、歳の税は二万二千二百五十七を益した。璽書で褒諭し治状を宣布して天下を勧め、両州は生祠を立てた。河東刑獄提点に抜擢され、また直龍図閣を加えて滄州を知った。程昉が境内に西流河を開いて州城を繞り三塘泊に北注させようとしたとき、賦は「滄城は河に近く歳々堤防を増しても奔溢を懼れるのに、まして妄りに開鑿するなど」と言い、昉は執って従わず、後に功は竟に成らなかった。蔡・潞二州を歴任し同判太常寺に入り集賢院学士に進んだ。朝にあってはしばしば建言し、二府の大臣が僦舎委巷に散処するのは公私ともに便でないとして前代の丞相府に倣い端門前に大第を列置し居らせるよう言い、また仁宗朝に兗国公主の第を治めるのに数十万緡の銭を用いたが今五大長公主があり皆前例のようにすればその費は限りないので中制を講求すべきと言った。裁定して定式となし、諸道提点刑獄司に検法官を置き専ら平讞を司らせ民に冤がないようにすることを請い、禁中に閣を建てて功臣像を漢の雲台・唐の凌煙のように描かせることを乞い、言うところは多く施行された。通議大夫として致仕し、襄陽に退居して卒す、年八十四。