宋史卷四百二十六 列傳第一百八十五 趙尚寛

唐州を再興した勧農の吏

  • 趙尚寛、字は済之、河南の人。参知政事趙安仁の子。平陽県を知るとき、隣邑に大囚十数人が械を破って夜逸し居民を殺して境を犯そうとしていると聞き、尚寛は尉に「盗は我が来られぬと思って怠慢し易く取られるだろう。急ぎ行くべきで散漫にさせて害をなさせてはならぬ」と促して出捕させ、尉が出た後さらに巡兵を遣わして後を追わせ悉く捕らえた。忠州を知るとき俗が蠱を蓄えて人を殺していたため、尚寛は方書を市中に掲げ人に薬を服させて蠱を為す者を索めさせ窮治して法に置くと、大いにその俗は改まった。転運使が塩数十万斤を持って民に白金と交換させる課を課し期会を促したとき、尚寛は官帑の蓄えを発してその需に応じ、徐々に民と交易したので擾すことなく集まった。嘉祐中、考課第一として唐州を知る。唐は元来沃壌であったが五代の乱を経て田は耕されず土地は広く民は稀れであり、賦は役を充たすに足りなかったため議者は県を廃すことを欲したが、尚寛は「土は広ければ益々開墾でき、民が稀れならば益々招徠できる。どうして郡を廃することがあろうか」と言い、図記を按視して漢の召信臣の陂渠の故跡を得て、卒を発して三陂一渠を復し疏通させ田万餘頃を灌漑し、また民に自ら支渠数十を作らせて転じて浸灌したので、四方の民で来る者は雲のように集まった。尚寛はまた荒田を口数に計って授け、民に官銭を貸して耕牛を買わせることを請い、三年のうちに榛莽の地は復た膏腴となり戸は万餘を増した。尚寛は農政に勤め治は異等の効があり、三司使包拯と部使者が交々その事を上奏し、仁宗はこれを聞いて嘉し詔を下して褒め、秩を進め金を賜って唐に留めること凡そ五年、民は像を立てて祠り、王安石・蘇軾は「新田」「新渠」の詩を作ってこれを讃えた。同・宿二州、河中府に転じたとき、神勇卒の中の大校が貪虐なので匿名書で変を告げる者があり、尚寛はこれを焚かせて「妄言に過ぎぬ」と言い、衆はやがて安んじたが、後にその校を奏黜し士卒を他営に分隷させた。また梓州に転じた。尚寛が唐を去ってから歳月を経るごとに田はますます開かれ戸は益々増えた。朝廷はその功を推し少府監から直龍図閣として梓州を知らせ、官は司農卿に至って卒した。詔により銭五十万を賜った。