塩利水利に功のあった辺将
- 張綸、字は公信、頴州汝陰の人。若くして倜儻で気を任じ、進士に挙げられず三班奉職に補せられた。右班殿直に遷り、雷有終に従って蜀で王均を討った。降寇数百が険を拠って叛くと、綸に撃たせた。綸は馳せて「これは窮寇であり急げば生を患む。向背を諭すに如かず」と報じ、有終がその説を用いると賊は果たして兵を棄てて降った。功により右侍禁に遷り、慶州兵馬監押となり、閤門祗候に抜擢され益・彰・簡等州の都巡検使となった。所部の卒が酒に縦って居民を掠めたため綸は首悪数人を斬り衆は定まった。荊州提点刑獄に転じ、東頭供奉官に遷り開封府界県鎮公事を提点した。霊夏への使いから還ると辰州渓峒の彭氏蛮が内寇したため、辰州の知事として蓬山の駅路を築き賊が通れぬようにすると賊は遁れ去った。渭州の知事に転じ、内殿崇班に改め鎮戎軍の知事となり、契丹への使いに出た。安撫使の曹瑋が上表して留めようとしたが果たせず、蛮が再び侵入すると辰州・澧・鼎等州縁辺五渓十峒巡検安撫使となり、蛮酋に禍福を諭し掠めた民を購い返させ、官を派して盟を結び境上に石を刻んだ。
- のち江淮制置発運副使に除された。塩課が大いに虧けていたため、通・泰・楚三州の塩戸の宿負を官が助けて器用に充て、塩の納入に厚く直を与えたところ、歳々課が数十万石増した。杭・秀・海三州にも塩場を復置し、歳入課はまた百五十万に及んだ。二歳で上供米八十万を増し、五渠を疏通して太湖を海に導き、租米六十万を復させ、長蘆西河を開いて覆舟の患を避け、また高郵の北に漕河堤二百里を築き、巨石を鉗めて十䃮を作り横流を泄した。泰州には捍海堰があり延袤百五十里、久しく廃れて修めず歳々海濤が民田を冐す患いがあったため、綸はまさに修復を議したが論者はこれを難じ、「濤患を息めれば畜潦の患いが興る」と言った。綸は「濤の患いは十のうち九、潦の患いは十のうち一で、得るものが多く失うものが少ない」と説き、三たび上表して自ら役に臨むことを願い、泰州の知事を兼摂して堰を完成させ、逃戸二千六百を復させた。州民はこれを利し生祠を立てた。淮南に六年居て文思使昭州刺史に累遷し、契丹の隆緒(聖宗)が死すと吊慰副使となり、秦・瀛二州の知事、滄州の知事を両度務め、東上閤門使に再遷し、真拜として乾州刺史となり、頴川の知事に転じて卒した。綸は材略があり至るところ興利除害を行い、人柄は恕く施しを喜んだ。江淮で漕卒の凍餒し道に死する者が多いのを見て「これは有司の過ちで、上仁を体するものではない」と嘆じ、奉銭を推して衣を買い、自存できぬ者に千の単位で衣を与えた。