宋史卷四百二十四 列傳第一百六十三 徐鹿卿

徐鹿卿、字は徳夫。隆興豊城の人。経史と文学で郷里に知られ、地方官では善政と直言によって治績を挙げ、中央でも宰相の籠絡を拒み直道を貫いた南宋の官僚。諡は清正。

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出自と地方官

  • 徐鹿卿、字は徳夫。隆興豊城の人。経史に通じ文学で郷里に知られ後進が師事した。嘉定十六年(1223年)廷試で有司が対策を優れているとしたが詳定官が直道を抑え第十位とした。南安軍学教授として、直道により謫居した張九成の言行を刻んで学に訓とした。周惇頤・程顥・程頤がかつてこの地で講学したことから理義の学を復興させ、学田管理と流民への撫恤を行った。福建安撫司幹辦公事として汀邵の寇乱に備え、避難民を救済した。都城火災に応詔上封事し、陰の極まりが火の徴であるとし嬖寵・燕私・小人の三事を指摘、真徳秀は「気平論正、憂愛の誠心あり」と評した。
  • 知尤溪県、知南安県として無名の科歛を廃し版籍を明らかにし冤抑を解消、真徳秀が政を疏して他邑に勧めた。飢饉に法をもって処し富者に分与させ、母喪の後、樞密稟議で辺事・楮幣を論じた。主管官告院、幹辦諸司審計司として故相子への祠禄増額を「一人のため成法を壊してよいか」と拒み、国子監主簿として洗凡陋・昭勧懲・清班著・重藩輔・用舟師防海・合東南全力守江の六事を献じた。

中央での言論

  • 樞密院編修官、権右司として大琮・克莊・王邁が言事で黜けられ、鹿卿が詩を贈られたことで併せて弾劾され、太学諸生が「四賢詩」を作った。知建昌軍として崇教龍会両保の民の争いを和解させ、賦歛を寛くし贓濫を汰し彊禦を抑え寡弱を恤み、百丈砦を築き治績大いに評判となった。督府の秋苗斛面の要求に対し「守は去ってもよいが米は民に得させられない」と争い免れさせた。行在に召される直前、盗賊が発すると渠首二十人を斬り他は問わなかった。
  • 度支郎官兼右司、侍右郎官兼敕命則修官兼右司として並相の弊を論じ、宰相の甘言による籠絡を「牢籠だ」と語り拒んだ。江東転運判官として大饑饉での人相食を掩捕、真徳秀の漕運への支援を求めるも報われず、本司の積米三千余石を半価で糶り、抵当庫の利息を貧民に分与、字遺孩を養う者に銭米を給し数百人を救った。岳珂が当塗を守った際の茶塩専利の横斂を覈し、李士賢の稲二千石を没収された事件を見て縦舎した。浙東提点刑獄兼提挙常平、江東常平提挙として蝗害を露香黙祷で退けた逸話が伝わる。
  • 丞相史彌遠の弟の温州通判の不正を削官、馮惟説の冤獄事件で衢州鄭逢辰と自劾し合意、丞相杜範が「直道の容れられぬのに君が出ないのは馮惟説の故か」と促し起用され太府少卿兼右司として国本の確立と規模の樹立を説いた。中書門下省検正諸房公事兼崇政殿説書、権吏部侍郎(執政の兵財分治に反対)、右文殿修撰知平江府兼発運副使、権兵部侍郎(丞相の招請で出仕)を歴任し、国子祭酒権禮部侍郎兼同修国史兼実録院同修撰兼侍講兼権給事中として瑣闥の職の権限回復を求め従われた。偽疏で宰相らを誹謗する事件に巻き込まれるが実態を弁明し、禮部侍郎に至った後、告老を重ね寶章閣待制知寧国府、鴻禧観提挙、致仕、華文閣待制として卒した。孝友で恩怨を泯し廉約清峻な暮らしを貫き、著書に『泉谷文集』『奏議』『講義』『塩楮議』『政藁』『歴官対越集』『手編漢唐文類文苑菁華』、諡は清正。