宋史卷四百二十三 列傳第一百八十二 陳塤

慶元府鄞の人、字は和仲。嘉定十年(1217年)進士。楼鑰・楊簡に学び、史彌遠の専権時代にも直言を憚らず、李全の異志への警戒や賈貴妃入内への諫言を行った剛直の士。彌遠没後も宰相権力の危うさを説き、地方官として治績を残したが、晩年は言論により罷免され家居して自娯した。

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出自と剛直な言論

  • 陳塤、字は和仲。慶元府鄞の人。大父・叔平は同郡の楼鑰と親交があり、死の際に鑰が哭泣した。塤は四歳で成人のように挨拶し、鑰が槃中の銀杏を示して対句を求めると即座に「金桃」と答え杜甫の詩を典拠に挙げ、鑰は「亡友は死んでいない」と感嘆した。周官を劉著に学び頃刻に数千言を暗誦、江東転運司試・礼部試ともに首位となり、嘉定十年(1217年)進士。
  • 黄州教授、父の喪では古礼を考証し祭儀を行い「俗学は学ぶに足りない」と楊簡に師事した。史彌遠が「省元は堂除教授から始めるべき」と述べたが塤は「廟堂の議がこれほど盛んなら、私から始まっては嫌疑を招く」と辞退し、処州教授に補された。理宗の求言に応じ、「上に憂危の心あれば下に安泰の象あり、上に安泰の心あれば下に憂危の象あり」として審憂楽の機を説いた。
  • 郡守髙似孫と意見が合わず職を去り母を奉じて帰郷、太学録に召され、天道は無親であり民心は保ちがたいと論じた。太学博士、宗正寺簿として都城火災の際は玉牒を石室に藏め、遷官を辞退。応詔言では非常の変には非常の挙動が必要と説いた。太常博士として袁爕の議謚を独り担当、他は皆執筆を憚った。「幽厲は百世たっても改まらない、諡には美悪があり墓誌の追従とは違う」と述べ、朱端常の諡を「榮愿」とした。

史彌遠への諫言と地方官

  • 李全が楚州で異志を抱いた際、彌遠に書を送り警戒を促した。賈貴妃の入内に対しても「君側の蠱媚を除き主徳を正すべし」と上疏。彌遠は「吾が甥はどうも好名らしい」と問うたが、塤は「好名は孟子の取らぬところだが、三代の下では好名でない士を求めることを恐れるべきだ」と答えた。
  • 彌遠の死後、樞密院編修官として入対、天下の安危は宰相にあり、秦檜死後の万俟卨・沈該、韓侂胄死後の史彌遠を例に「今日謹むべきはこの点」と論じ、宦官の禁と台諫選定の厳格化を説いた。陳洵益に恨まれ監察御史王定の弾劾で知常州に出された。知衢州では、賊が発した際に諜者を捕らえ牛酒を送って諭し帰順させ、器械を献じた者に酬いて賊を潰散させた。
  • 提点都大坑冶、福建転運判官を歴任するが侍御史蒋峴と『中庸』の議論で対立し弾劾された。浙西提点刑獄として旱害・盗賊を鎮圧、安吉州の俞垓(丞相李宗勉の姻戚)の不正を糾したが、その部下の弓手戴福の悪行を巡って宗勉と書簡で応酬しつつも、獲えた福を市中に晒しながら殺さず監禁するに留めた。
  • 吏部侍郎に召され国子司業を兼ね諸生に慕われた。玉牒検討・国史編修実録修撰を辞し、境土の蹙まり・民生の艱難・国計の匱乏を訴え、用舎を明らかにして紀綱を振興し、節儉を躬行して冗濫を汰し、貴近を抑えて糶糴を寛くすべきと説いた。諫議大夫金淵に忌まれ補外を求めるが許されず、知温州に至る前に言論で罷免され、家居して泉石に自娯した。輕財急義で一言も再言を要さなかったという。呂祖謙の墓誌に生没年が偶然一致することに気づき「私も今年死ぬだろう」と語ったという。
  • 子の陳蒙は十八歳で万言の上書をなし呉子良に奇才とされ、太府寺主簿となり賈似道の失政を極言、淮東総領のとき似道に貪汚と誣告され建昌軍簿に貶され家を没収されたが青氈のみが残ったという。徳祐初、禮部侍郎李珏の乞いで放免され刑部侍郎に召されるが赴かず卒した。